押井を憐れむ歌

死ね死ね押井守


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「押井守」が大嫌いだ。嫌いなだけじゃなく、映像監督として、エンターテイメントに携わる送り手として、表現者として「クソ」だと思っている。ま、こういう個人のホームページでメジャーな人の批判や悪口を垂れ流すのは誰にでもできるし、やってるし、そしてそれは卑怯なことでもあるので、実はあんまりそういうことは言いたくないのだが実に言いたい。押井守はクソ野郎だ。

まずつまらん。奴の映画はことごとくつまらん。「ビューティフルドリーマー」「赤い眼鏡」「機動警察パトレイバー1」そして「2」、どれもこれもいちいちつまらん。面白くない。「攻殻機動隊」はこれまた嫌いな士郎正宗とのダブルパンチだったので、もう見てないけどつまらないこと認定。バァン!(注:ハンコを押す音)士郎正宗が嫌いな理由は、おそらくこれから述べられるであろう押井守が嫌いな理由とほぼ同じなので、省略。話を進めよう。

つまるつまらんは突き詰めれば個人の主観であり、その点に関してごちゃごちゃ言ってるうちは負け犬の遠吠えに過ぎないがつまらんものはつまらん。つまんねぇぞ。ま、つまんない映画監督というのは他にもたくさんいるし、それ自体が罪とも思えんのだが、「カルトな映画監督」として妙に持ち上げるウンコちゃんがわらわらおるのは本当にいらいらさせられる。あほうどもが押井を支持する大きな理由が「複雑・難解かつ深遠な内容」だ。ハ!お笑いだね。難しいの好きなの、ボクちゃん?本屋さん行って適当な学術書でも読んでろよ。スッタコがぁ!

押井ファンが押井を支持する最大の理由が同時に押井がつまらん最大の理由になっている。「難しげなことをだらだら垂れ流してカッコつけた挙げ句、実は何にも言ってない」のだ、奴は。確か「パトレイバー2」だったか、竹中直人が声を担当するテリー伊藤みたいな目をしたキャラクターが「東京」という街について長々と語って見せる。ま、要は「大都会の無機質さ」とかについてブツブツ愚痴る極めて安易な東京批判だ。そんなに嫌なら田舎帰ってトンガかつげよ(注:鍬のこと)すばらしい大自然とやらに囲まれてさぁ、土でも膣でもいじってりゃいいじゃん。あと長渕剛、お前もな。こういうやつら程「田舎の人は純朴でいいですね」などと勘違い&見下し意識に満ち満ちてやがる。田舎も都会も、人間が狡猾で悪意に満ちていることに変わりはないというのに。

映画に限らずあらゆる表現において、それはもう友達との何気ない日常会話においてすら、必要なのは「相手に伝わること」だ。ちょっと考えりゃゴミムシにもわかる。例えそれが「昨日寝坊しちゃってさぁ」であっても「伝えよう」とするのが目的なら、伝わらなきゃ意味がない。そして「伝わったかどうか」を決めるのは、送り手ではなく受け手なのだ。そして送り手は、受け取られたことについて責任を取らなきゃならない。

もし俺が3歳の子に「財政構造改革は橋本政権の急務だよね」と言い、それが子どもにわからなかったとする。それは小さいながらもコミュニケーションにおける一つのアクシデントだ。ならばそのアクシデントの責任というのは、どこにあるのか?それはもちろん、俺自身にある。相手のことを考えずに言葉(という名の伝達手段)を使ったからだ。3歳の子どもの「現在の日本の政治・経済に対する意識の低さ」について断罪できるだろうか?責任を追求できるだろうか?「できる」と言い切る人、教えてあげるけど、あんた問題ありありだよ、セラピー受けた方がいい。

ま、これは俺の考え方で、それを他人に押し付けるつもりはない。でも人に何かを言うときは、相手にわかるように言わなきゃね、というのがいかに大事なことかは誰にでも納得してもらえると思う。繰り返すがこれはあらゆる表現において必要である。世の中には「伝わる」表現と「伝わらない」表現があり、伝わらない表現は本質的に表現と名乗る資格すらないのだ。そしてそれが表現のプロであった場合、お金のやりとりという新たな軸が発生することになる。

我々はしばしば、お金を払って表現を買う。映画とか音楽とか、TVですら「CMを見る」という役割をスポンサーに期待される形で買っている。レンタルビデオだって、「所有することはできないが、限られた時間だけ視聴する」という権利を\300とかそこらで買っているのだ。そして我々がそうした表現に対してお金を払う根拠は、その表現(情報といってもいい)が自分にとって面白いとか、楽しいとか、役に立つとか、とにかく自分にとって「有益である」ことを期待しているからであり、それは送り手と受け手との間の信頼関係に支えられている。

従って、送り手の側には支払われたお金に対する責任がつきまとう。俺が3歳児に何を言おうが、そこから発生する責任は大した事ない。しかしマスの媒体で流通に乗り、不特定多数の人間が料金を払ってまで期待する表現に対しては、3歳児のそれとは比べ物にならない大きな責任が発生するはずだ。なぜなら彼らはプロであり、料金に見合うほど質の高い表現を見せてくれるであろうことを信頼関係に基づいて期待されているからだ。

その点、押井守はどうか?我々が押井に対して払う期待や料金は押井の素晴らしい能力によってペイされているか?残念ながら答えはノーだ。押井映画は難しい。物語の構造も複雑だ。キャラクター達は次々と難解なセリフを吐く。一人の独白が長々と続き、イメージカットの様な映像がちりばめられる。しかしその結果として語られる内容は何もない。ゼロだ。スカスカだ。空っぽだ。何がしかの結論も見えないし、独自の視点や問題提起、考え方が提示される訳でもない。ただ「あ、この人、難しそうな言葉ならべてカッコつけたかったんだな」という感想だけが残る。

ある情報をAさんがBさんに伝えるとき、大きくわけて4種類の事態が発生するとしよう。

①簡単なことを、簡単に言う。

②簡単なことを、難しく言う。

③難しいことを、難しく言う。

④難しいことを、簡単に言う。

①と③はただそのまんまなので誰にでも出来る。ルチ将軍でもフォレスト・ガンプでも関係ない。逆に誰にでもできるという訳ではなく、従って本当に価値があるのは④だけだ。誰だって、お金を払うならこういうものに払いたいものだ。しかし残念ながら、世の中に多くあふれているのは②である。①や③よりは少々技術を要するが、かといってそれほど高等なものではない。ちょいと練習すれば、バカボンやそのパパにだってできることなのだ。もちろん俺自身や、あなたにも。

しかも②には多くの場合、憎むべき悪意が込められている。伝えたいことが簡単なものなら、何故①のパターンで簡単なまま伝えないのだろうか?何故わざわざ少々の技術と努力を使ってまで、難しく表現するのであろうか?答えは一つ、世の中において「難しいことには価値がある」と「思われている」からだ。そして悪意ある②の使用者はそれを知っており、その上であえて②を選択することによって自らの価値を高めようとしているのだ。

本当は「難しいこと」それ自体に価値はない。ただ本当に価値あるものが、しばしば「難しいもの」の近くにあることは確かだ。「難しいもの」は当たり前だが人々に理解されにくいものであり、従ってそれを理解したとすればそこに価値が発生する。本当に価値があるのは、「難しいこと」そのものではなく、「難しいことを理解したこと」なのだ。

だいぶ話がずれたようだが、要するに押井は「悪意ある②の使用者だ」と言いたいのだ。一見難しそうな話をすることで「難しい=価値がある」と誤解している人々をだまくらかし、不当に高い評価を得ている極悪人だ、と言いたいのだ。百歩譲って押井に悪意がないとしよう。本人は誠実に何かを伝えようとしており、しかしながら結果としてただ難しいものになってしまっただけ、としよう。だがそれでも押井はクソである。なぜならそれは表現として失敗であり、プロの表現者としての失敗だからである。そして失敗作を数多く垂れ流しながら、不当に高い評価を得ている。押井はクソだ。許すまじ。

押井だけでなく、押井のインチキな難しさをありがたがる押井ファンに対しても腹が立つ。きゃつらは難しいことが=高級であるかのように錯覚し、自分がそのファンであることで自分までもが高級になったと二重三重に勘違いしてやがる。「一部にカルトな人気を誇る」だぁ?本当にすごいもんだったら、どこへ出しても誰が見てもすげぇと思うんじゃないんですかねぇ?それがいつまでも一部の人間に留まっているのは、「その程度の浅い嘘にだまされるバカは一部しかいない」ってことじゃないんですかい?

ついでに言えば、押井個人に何ら創造性はない。彼の作品でヒットしたものを挙げてみよう。「うる星やつら2~ビューティフルドリーマー~」「機動警察パトレイバー1、2」「攻殻機動隊」映画マニアや押井信者でない人でも知ってる程度にヒットしたのはこんなもんか。「赤い眼鏡」「ケルベロス」「天使のたまごっち」が「ヒット作品」だと信じてるやつ、今すぐパソコンの電源切って、なるべく暖かくして寝ろ。ほんで明日朝イチで病院に行け、約束だ!

さて問題です。これら押井のヒット作に共通するものはなんでしょう?そうです、「原作は他人」ということDeath!彼自身のオリジナルはそれこそ「熱狂的な押井信者」に支持されただけに終わっています。Yeah, it's cool! what pleasant company, Ha! 全くなんて愉快なんだ、押井君ったら。要するにこいつは他人のふんどしでしかとまともな相撲がとれんのだ。奴の「ヒット作」の評価は、多少さっぴいて考えなければなるまい。それらは「うる星やつら」ファン、「パトレイバー」ファン、「攻殻機動隊」ファンの賜物だからだ。押井のクリエイターとしての評価は、やはり押井オリジナルの作品で問うべきだろう。そしてその結果は、今のところ見事なまでに数字として表れている。ざまぁみろ、けっ!

大学のゼミの同級生に、押井信者がいた。とある飲み会の時に、からかい半分で押井の魅力について聞いてみた。彼は例によって「難解かつ深遠な内容」を持ち出す。「難解はともかく深遠はダウトだ、ありゃ内容スカスカだぞ」と笑う俺に反論する形で、パトレイバー2という映画の話になった。この映画をまだ見てない人で内容を知りたくない人は、こっから先は読まない方がいいかもしれない。

映画の冒頭シーンである。国連平和維持活動かなんかで、カンボジアらしき東南アジアの国に行った自衛官がいる。彼らは監視活動中、停戦に合意しない(のだろう)ゲリラの襲撃を受ける。自衛隊の指揮官は応戦するため、無線で本部に発砲許可を求める。しかし曖昧かつ微妙な日本独自の政治判断により、応戦は許可されない。そうしている内にも部下は目の前で次々とやられていく。指揮官は必死で許可を求めるが、その度に拒絶される。部下はどんどん死に、遂には指揮官の搭乗するロボットもやられてしまう。

かろうじて命は助かった指揮官は、ロボットの外にでる。熱帯特有のスコールが降るジャングルで、指揮官は呆然と一人たたずむ。ふと見上げると、そこには仏教寺院らしい遺跡がある。指揮官はそれを見つめる。巨大な石仏はアジア特有のなんともいえない笑顔を浮かべており、画面はいつまでもそれを映し続ける。

ま、随分前に見たもんだから細かいカット割りなんかは自信がないが、とにかくこんな感じだ。ゼミの押井信者くんはこのシーンの話を持ち出す。「こういうシーンがあるんだよ」「ああ、俺もあの映画見たから知ってるよ」「で、あのシーンなんだけど、あれには『神は見ていながら何もしなかった』というメッセージが込められているんだよ」「ふーんなるほどね、何でお前それ知ってんの?」「それは押井さんの本に書いてあったからだよ」「え?!?!?!」

彼の話によると、押井さんはこの映画で言いたいことが十分言えなかったそうなのだ。そこで「あそこのあのシーンはああいう意味があります」みたいなことを書いた解説本を出したそうなのだ。ゼミの押井信者くんはそれを読み、映画「パトレイバー2」の本当の姿がわかったという。その本を読めば押井さんが本当に言いたかったことがわかり、映画が補完されるというのである。

こ、こ、こ、このクソボケフニャチンうんこ垂れチンカスこびりつきバカアホボケナスゲロ吐き下痢便ミサイルメガスーパーダイナマイトギガスペシャル馬鹿めがああああああぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!お前なんかこうだ!こうだ!こうだ!こうして、こうして、こうしてやる!!・・・・・・・ハァ、ハァ、何を言わんとしているか、わかって頂けるだろうか。押井守はあらゆる意味でクソ野郎だ、と言いたいのだ。もう本当に、どこまでクズなんだよ、押井クンはよぉ。

映画の中で言いたいことが十分言えなかっただとぉ?それで代わりに本を書くだとぉ?お前映画監督だろ、言いたいことは映画の中で言わんかい!そん中で収まらんかったら、それはお前の映画監督としての能力の不足だ。それを代わりに本売って商売するとは何事だ、ボケがぁ!信者も信者だ、そんなもんありがたがって押し頂いてんじゃねぇよ、バーカ!

映画作っといて、その映画に込められた「本当の意味」を書いた本を出す。モノ作る人間として、押井はどういう神経をしているのだろう。それは映画の中で「こういう本がありますんで、一緒に見て下さい」って告知しているのだろうか。もししてないとしたら、映画を見て本を読んでない人に対して、ものすごく失礼なんじゃないでしょうか?ええ、失礼です。もちろん映画の中でそんな告知はありません。従って押井は客に対し、「もんのすごく失礼な」ことをやっちまっているのです。ね、クソ野郎でしょ?

確かに最近、そういうのが多い。○○完全版とかディレクターズカット版とかCGでリニューアルした特別編とか奥山監督ヴァージョンとか。もううんざりだ、そんなもの。客をなめるにもほどがある。人間、後からなら何とでも言えるっつーの。コロンブスの卵の話、知らんのかい。ビジネスとかそういうことで考えれば、○○完全版は楽して儲かる、おいしい商売だ。でもやっちゃいかんでしょ、それは。がんばって新しいの作りなさいよ、あきらめてさぁ。

そういうものをありがたがる信者くんにも問題はある。オタッキーてぇのは「隠された」「真の」「今だから言える」「実は」にすごく弱い。そういうのがすごくうれしいメンタリティがある。それはわかる。でもやっぱ、それは「反則技」だ。それがどんなに見事なものであったとしても、反則技はしょせん反則技だ。ルール通りに戦って勝ってる人の方が、やっぱり価値があるし、支持されるべきだ。あまりにも反則技があふれているので、それが見えにくくなっているとは思うけど。悲しいね、まったく、ハァ。

どうか神様、誠実に努力している人が報われる世の中でありますように。そして押井守、お前はもう映画やめろ、ペッ!