目でみる「アンネの日記」 より

時代えてりかけてくるもの

―アンネ・フランクの世界と私―


深町 眞理子

一九八六年初夏のころからほぼ一年余り、翻訳者として、『アンネの日記』を三十四年ぶりに新しく訳しなおす仕事と、ひきつづき、アンネたち八人のユダヤ人を《隠れ家》の外から援助した オーストリア生まれのオランダ女性、ミープ・ヒースによる回想記『思い出のアンネ・フランク』 を訳出する仕事(以上いずれも文藝春秋刊)にたずさわった。 もとよりこの(かん)に、ほかの本の翻訳もいろいろ手がけているし、必ずしも生活が“アンネ・フランクの世界”一色に染まっていたわけではないのだが、それでも、普段たずさわっているフィクションの翻訳とは異なり、この二冊には、わずか四十数年前のあの異常な狂気の時代における、平凡な市民の生きかたを示しているという点で、貴重な現代史への証言という重みがあり、それが、アンネたちを迫害したナチ・ドイツの同盟国、日本に生まれたという立場のちがいはあっても、おなじ平凡な市民の娘として、彼女とほぼ同時代に少女期を過ごした私にも、それなりに歴史を観照し、現在の生きかたをふりかえることを迫ってきた、とは言えるだろう。

歴史を観照する、とはいっても、私自身はアンネより二歳半ほど年下、戦争が終わったときにはまだ十二歳だった。 事情があって小学六年を二度くりかえしているので、やっと女学校にはいったばかり、それほど社会情勢というものを的確に見通していたわけではない。 おなじ一九三一年生まれでも、たとえばSF作家の小松左京氏は、早生まれでもあり、すでに中学三年になっていて、人並みに軍国少年だったと語っておられるが、私は“軍国少女”ですらなかった。 父の影響というか、家庭の雰囲気によるものである。

父は一介のサラリーマンだったが、昭和初年に慶応義塾大学を卒業していて、昭和六年(満洲事変の始まった年であり、以後日本が軍国主義の道を突き進んでいった、いわゆる“十五年戦争”の始まりである)に生まれた娘に、眞理子(本名である)と名づけたことからもわかるように、全体主義とか神国思想といったものを極端に嫌った人だった。 私が小学校へあがってまずびっくりしたのは、級友に昭子とか和子、男なら忠義、孝行、といった名前がやたらに多かったことだ。 わが家では、弟も恭一(知る人ぞ知る、かの野球のゴルフ・スイングの元祖、新田恭一氏にあやかったもの)だし、まあだいたいそんな雰囲気の家庭で育ってきた身としては、 級友の名に違和感を覚えたのも無理はない。 いまにして思えば、私のほうこそ、ひとりだけ異国ふうの名で、いまならさっそくイジメの標的にされていたかもしれないのだが。

父はむろん戦争には反対だったし、一九四三年ごろから、内輪の席ではよく、この戦争は負けると言っていた。 いま考えると、負けると言いだしたのは、いわゆる“学徒出陣”により、文科系学生・生徒の徴兵猶予の制度が停止され、慶応大学経済学部の後輩が、ペンを銃剣に持ちかえて行進する姿を見てからではないかという気がするが、それはともかく、当時のインテリの常として、軍国主義政策を積極的には支持しないという態度でしか、自己の主張をあらわすことはなかったし、抵抗することもなかった。またはできなかった。 たまたま最近、あのナチ政権下の十二年間に、ドイツの一般国民がどんな気持ちで過ごしていたか、つぎつぎに起きる異常な事態をどう受けとめていたか、それについて語ったある学者の告白を読んだが、それを見ると、ドイツでも事情はほぼおなじだったらしい。 毎日、ほんのわずかずつ社会のありかたが変わってゆくが、内部にいるかぎりは、変化はなかなか目につかない。 どうも変だぞと思っても、それがどういう結果を招くかはだれにも証明できないから、周囲から異端者扱いされるのがいやさに、なんとなく順応しているうちに、ひとりひとりがナチの思想や意識に完全に同化したわけでもないのに、いつのまにか社会全体がそうなってしまっていた、というのである。 抵抗することによって、身に危険が及んだり、明らかな迫害を受けたりすることがない場合でも、全体の流れに逆らうことがいかに困難か、このことからもよくわかる。

話がそれた。先を急ごう。

敗戦から七年たって、皆藤幸蔵氏の訳による『アンネの日記』の最初の版、『光ほのかに』が刊行された。 私が読んだのは、それから二、三年後、ミリー・パーキンス主演の映画が公開されたころだと思う。 それも、自分で買って読んだのではない。 当時勤めていたアメリカ人の経営する本屋で、著作権・翻訳権の斡旋(あっせん)をしていたので、著作権部の棚に資料として並んでいるのを、借りてきて読んだのだ。 それまで読まなかったのは、ベストセラーであり、たいへんな評判になっていたため、わざと敬遠していたからだが、やはりそうした気持ちがわざわいしてか、ひととおりの感動しか受けなかった。 いま思うと、当時の年齢も影響していたような気がする。 すでに二十代なかばに近く、アンネの語っている思春期独特の悩みや孤独感、それらを超えて日々成長してゆく若い魂の軌跡、そういったものに同化するには年をとりすぎているいっぽう、『日記』の背景となっている社会情勢を事実としてきっちり把握し、戦争のもたらす悪や、そのひずみを、自分のものとしてとらえ、次代に語り伝えてゆくには、ほんのわずか若すぎる、そんな年代だったからだ。 もちろん、そういうものを知らなかったわけではないし、さらに七、八年たって、会社を辞め、翻訳の仕事を始めるころには、知識として、ナチによるユダヤ人迫害の事実、ファシズムの恐ろしさ、日本で軍部が、ドイツでヒトラーが権力を握るのには、どういう時代の趨勢(すうせい)が基盤になっていたか、そういった問題についてひととおりのことは身につけていた。 一九六九年にはじめて海外旅行をしたおりには、アムステルダムで半日の自由時間を利用して、《隠れ家》を訪れてもいる。 けれども、結局それらは、あくまでも“ひととおりの知識”でしかなかった。

いくらか様相が変わってきたのは、八六年になって、『日記』の翻訳にとりかかってからだ。 翻訳作業を進めながら、しばしば私は、アンネがこう書いているこのころ、私自身はどこで、なにをしていただろう、と考えている自分に気づいた。 そして、記憶に残る自己の体験と、アンネの記述を重ねあわせているうちに、アンネの語っていることが抽象的な言葉としてでなく、はじめて実感としてとらえられるようになったのである。

たとえば、アンネが日記を書きはじめた一九四二年六月。 このころのアンネは、誕生日にどっさり贈り物をもらったことや、誕生パーティーをひらいたこと、学校生活のこと、などをとても楽しげに語っているが、実際にはそのころすでに、オランダはドイツ軍に占領されていたのであり、ユダヤ人にたいする締めつけが日に日にきびしくなっていたはずである。 このことは、ミープ・ヒースによる『思い出のアンネ・フランク』に如実に描かれているが、アンネ自身は、すくなくとも毎日の暮らしのうえで、それをことごとに意識してはいなかったようだ。 げんに、四四年三月七日の記入に、「おととし、一九四二年の生活のことをいま思いだすと、まるで夢のような気がします。……たしかに天国のような生活でした。どこに行ってもボーイフレンドがいましたし、学校ではどの先生からもかわいがられ、家庭ではまったくの甘えん坊、お菓子はどっさり、お小遣いもたくさん」、これ以上望むことのない生活だった、と書いている。 さらに、《隠れ家》生活を始めたその年七月からの記述も、多くは、周囲のおとな、とくに母親の無理解にたいする批判や抵抗で占められていて、彼女のなかでは、外の世界にたいする関心以上に、思春期の少女らしい内面の悩みが、大きな比重を持っていたことをうかがわせる。 私もおなじだった。 当時十歳、いまは練馬区になっている東京板橋区の、ある国民学校の五年生で、むろんそれなりに時局のことは承知していた。 灯火管制もあったし、防空演習もあった。 物資も不自由になりはじめていた。 けれども反面、普通の五年生の女の子らしい体験も、それとおなじくらいに、むしろそれ以上に多かったのであって、たとえば、当時の愛読書は、吉屋信子 『花物語』、デュマ『黒いチューリップ』、江戸川乱歩や大下宇陀児、甲賀三郎などの短編(なんとも珍妙なとりあわせ)、イラスト(とは当時は言わなかったが)を描けば、“くるみちゃん”(と聞いて、なつかしく思うかたもあるはずだ)とか、フリルが何段も重なったスカートをはいたお姫様、父が趣味で学生時代から加わっていたマンドリン・クラブの演奏会には、ビロードの服にエナメルの靴で出かけ、帰りに銀座のオリンピックで食事をする、といったぐあい。 要するに、日常のすべてが戦争とのつながりにおいて意識されるほど、目が社会には向いていなかったということだろう。

そして、アンネにしろ、私にしろ、こういうことは、ある意味で、むしろ自然なのではないかと思う。 のちに、六〇年安保のころ、「安保反対を叫んでデモなどに参加しているのはごく一部のもので、それをはるかにうわまわる大衆が、夜ごと後楽園球場を埋めている」とうそぶいた政治家がいたが、民主社会ならば、それが当然なのであって、どんな問題にもせよ、子供まで含めたひとつの国民の意識が、“打って一丸となって”ある方向に向かうというのは、かえって恐ろしいことではないだろうか。 そしてそれを国家権力の主導のもとにやろうとしたのが、まさにナチズムであり、ファッショであって、この『目でみる「アンネの日記」』にも出てくる一糸乱れぬナチの行動に慄然(りつぜん)とするのは、あながち私だけではあるまい。

もうひとつ、四二年ごろまで、暮らしに比較的ゆとりがあったように思えるのは、こちらの年齢のほかに、戦局が枢軸国(すうじくこく)側に有利に展開していたこともひとつの理由だろう。 それが四三年になってからは一変する。 この年二月に、日本はガダルカナルを放棄し、ドイツはスターリングラードで決定的な敗北を喫する。 このころから、『日記』には、英軍の空襲に関する記述が多くなる。 四三年三月十日――「一晩じゅう高射砲が鳴りづめです。……いまだに、高射砲と飛行機に関連するすべての不安を克服することができません」。 三月十二日――「ドイツ本土が猛烈な空襲を受けています」。そして七月十九日――アムステルダム北部が大空襲を受けました。……二百人の人が死に、……親を探しあるいているうちに、まだくすぶっている廃墟で、行方がわからなくなってしまう子供たちもいるそうです」。 食糧事情も悪くなっていたし、五月一日には、「将来、平和になってから、いまの生活をふりかえったら、以前はあれほどきちんとした暮らしをしていたわたしたちが、よくもあそこまで落ちたものだとあきれることでしょう。落ちたとは、生活習慣すべてが悪くなったということです」とも書いている。

おなじころ、私のほうも、戦争の重圧がしだいに身近に迫ってきたのを感じていた。 食糧をはじめ、生活必需品全般に不自由するようになっただけでなく、「欲しがりません勝つまでは」「贅沢(ぜいたく)は敵だ」などの標語に代表されるように、“精神主義”の押しつけがめだちはじめた。 反面、“闇”とか“情実”とかで、急にはぶりがよくなった人もいて、それが子供心にも割りきれなかった。 六年になったので、体育の正課として薙刀(なぎなた)もやらされた。 この年か前の年かに、これも戦時体制の一環か、東京では中等学校の入試制度が変わって、学科試験がなくなり、内申書と口頭試問と体育の実技だけで採点されることになったが、これなども、“期待される少国民”像を演じるのが苦手、体育もさほど得意でない私にとっては、頭の痛いことだった。 暮れには、教わっていたピアノの先生に召集がきた(余談だが、八年ほど前、このときのことをある雑誌に書いたところ、先生が読まれて、電話をくださった。さいわい無事に帰還されたそうだが、本来楽器を弾くべき手に銃を握って、先生はどんな思いで毎日を過ごしておられたのだろう。いまあらためて、当時のことをうかがってみたい気がする)。

四四年にはいると、時局はいよいよ逼迫(ひっぱく)してきた。 三月二十九日付のアンネの日記。 「戦後十年もたって、わたしたちユダヤ人がここでどんなふうに暮らし、どんなものを食べ、どんな話をして過ごしたかを発表したら、きっとひどく奇妙に見えることでしょう。……野菜を買うのにも、そのほかなにを手に入れるのにも、市民はいちいち行列しなくてはなりません。……盗みやかっぱらいが横行し、いつのまにオランダ人は、これほどの泥棒人種になってしまったのかと、不思議に思うほどです。……このように国民の道義心が低下するのも、しかたがないことかもしれません。週ごとの食糧の配給は、……二日しかもちませんし、……靴の底革を張りかえるだけで、闇で七フローリン半もかかります。しかも、たいがいの靴屋は修繕をひきうけず、かりにひきうけてくれても、何カ月もかかるうえ、そのあいだに肝心の靴が紛失してしまうことも珍しくありません」

日本でも、事情は似たようなものだった。 六月、マリアナ沖海戦の敗北。 七月、サイパン島陥落。 ビルマとインドにまたがるインパール作戦の失敗(叔父のひとり―母の妹の夫―は、この作戦で戦死しているし、ずっと年長の父方のいとこも、このころ戦病死している)。 学童疎開が始まり、秋からは本土空襲が本格化した。 ただしわが家では、二月にとつぜん父の転勤が決まり、“単身赴任”など概念すらも存在しなかった当時のこと、一家をあげて京城、現在の韓国のソウルに移住していたから、たまたま時期が私の入試と重なって混乱があり、結局落第したかたちになったとはいえ、疎開も、熾烈(しれつ)な空襲も体験していない。 ソウルでは、翌年、戦局がいよいよ絶望的になるまで、生活も比較的安定していたが、いま考えてみると、その安定は、朝鮮の人たちの犠牲の上に成り立っていたと言えなくもない。 いわば私たちは、いちばん末端のところで、戦争の加害者と被害者の二面性を体現していたのである。

四四年八月四日、アンネを含む八人のユダヤ人がゲシュタポに連行された日。 このころ私は、ソウルで二度目の六年生をやっていたが、すでに夏休みはなく、たぶんこの日は、講堂の板の間にじかにすわって、勤労奉仕の“兵隊さんの水筒の紐”を縫う仕事をしていたはずだ。 ごついカーキ色の真田紐のようなテープを重ねて、そこを返し縫いで留め、水筒のはいる形にするのだが、テープが厚くて、針がなかなか通らず、ひたすら指が痛かったことしか記憶にない。 小学生がこういうかたちで戦争に協力することを強いられるほど、戦況は逼迫していたということになるが、それでも、その後さらに一年、日本は持ちこたえたわけであり、その(かん)、大多数の民衆は、これを“聖戦”と信じて、程度の差はあれ、これに加担し、戦争遂行に邁進(まいしん)してきたのである。 四四年五月三日のアンネの記述――「戦争の責任は、偉い人たちや、政治家、資本家だけにあるとは思いません。……名もない一般の人たちにも責任があるのです。そうでなかったら、世界じゅうの人びとは、とっくに立ちあがって、革命を起こしていたでしょう!」。

戦争の悪を、戦禍の悲惨を訴えることはやさしい。 反戦を唱えることももちろん必要だろう。 だがその前に私たちは、自分のなかにあるこうした弱さを、しっかり見つめる必要があると思う。 そうでないと、いたずらに抽象的な言葉を並べるだけに終わり、前に挙げたドイツの学者のように、いつのまにか流されてしまうだろう。

もともと人間には、つらいこと、満たされぬことがあると、虐げる側に怒りを向けるかわりに、より弱いもの、ほんのわずかでも自分たちの“横並び”の意識からはずれているものを見つけ、迫害することで、それをまぎらそうとする傾向がある。 権力者もそれを利用して、大衆の不満をそらそうとする。 げんに、アンネたちが二年余りの《隠れ家》生活のすえにつかまったのも、オランダ人のだれかの密告によるものだし、ナチ占領下のヨーロッパ各国に、対独協力者がたくさんいたのも周知の事実である。 ミープ・ヒースもその著書のなかで、占領下のオランダでは、ドイツに協力するものと抵抗するもの、二種類の人間しかいなかった、と書いている。 おなじような事態になったら、あすにでも私たちがそのひとりにならないとは言いきれない。 最近、いわゆる“反ユダヤ人本”がブームになっているが、これなども、現在の社会の先行きになんとはない不安があるのにつけこんで、ユダヤ人をそのスケープゴートに、“イジメの標的”に仕立てようとしているのではないかと思えてならない。

『アンネの日記』は、読むものそれぞれの立場により、いろいろに読むことができる。 ユダヤ人問題を含む広範な人種差別反対運動のバイブルとしてとらえるのもいいし、異常な時代に生きたひとりの多感な少女の、人間的成長の記録として読んでもいい。 ここに個人的な追想もまじえて長々と書きつらねてきたのは、私が『日記』に触発されて、戦後四十年をへた現代社会のありかたについて考えてみた、その雑感の一端である。 このように、時代を超えてなおさまざまに考えさせる力を持っていること、これこそ《永遠の書》としてのこの本の魅力だと言ってよいだろう。



Webページへ編集した者より

目でみる「アンネの日記」』より抜粋。深町眞理子さんが自身の戦時体験と追想を(まじ)え、戦後40年をへた現代社会について考えた内容です。 この本の初版は1988年なので、2022年の今では、戦後77年になりますが、いつの時代の人にも十分に通用する秀逸な文章だと思います。

本書は Internet Archive に本があったので、借りて読みました。 上の文は巻末に載ってますが、スキャンされたページはセピア色に古ぼけ、文字もかすんで読みづらくなっています。 じっくり読みたかったので、どこかにデータ化された文章は落ちてないものかと思い、検索してみたのですが、まだWebページにはなっておらず、仕方なく そのまま読みました。

そして読了後、とても素晴らしい文章だと思ったのです。 こんな良いものが文字データにもされず、くすんだまま放置されているのは、なんとも忍びないと感じました。 そこでGoogle最先端のOCR(光学文字認識)で画像からテキストを抽出し、こうしてWebページにまとめた次第です。

実際に読み込ませた画像データ
目でみる「アンネの日記」ページ216~217 目でみる「アンネの日記」ページ214~215 目でみる「アンネの日記」ページ212~213 目でみる「アンネの日記」ページ210~211 目でみる「アンネの日記」ページ208~209

機械や通信網が格段に発達し、パソコンやソフトウェアが進化した現代では、古ぼけてかすんだ縦書きの文字であっても、ボタンひとつで99%の精度で解読して横書きにも直してくれます。 それでもまだミープ・ヒースがミー・ヒースになっていたり、オランダがランダだったりするので、一通りのチェックや1%の手直しが必要です。 テクノロジーは日進月歩で進化しているので、この一通りのチェックと編集もボタンひとつで済むようになるでしょう。最近ではボタンすら押さず、 アシスタントソフトやスマートスピーカーへ話しかければ済むようにもなってきました。 脳波を直接読み取り、念じるだけで何でも用事が済ませられる未来さえ近いのかもしれません。 人工知能が発達すれば、もはや考えることや判断さえ省略できてしまいそうです。

けれど、いくらコンピューターやアルゴリズムが進化しても、人間がやらなければならない事、しなくてはいけない事があります。それはどんなことでしょう?  秀逸な文章には、その答えを見つける為のインスピレーションが秘められています。 私にとっての答えの一つは、この貴重な文章を多くの人へ読んでもらう為、こうしてWebページに編集する事です。 答えには、各自が自分のものとしてとらえ、考え、たどり着かねばなりません。 実感としてとらえられるようになるまでは、どこかよそよそしい他人事のような話です。

逆に、人としてやってはいけない事、してはならない事はなんでしょうか?  私は本をあまり読まないし、読みたくもないタイプです。 最後に書籍を借りて一冊読了したのがいつだったかも覚えていませんし、本屋など視界にさえ入れません。 ですが、久々に借りて読み終えた『目でみる「アンネの日記」』は、その手がかりやヒントを見つけられるような、大事な内容がたくさん書かれていました。 これも多くの人に読んでもらいたい、おすすめの一冊です。

インターネット・アーカイブはネットの図書館みたいな場所で、本に限らず多くの資料やデータが貯蔵されています。 まだ日本語に対応しておらず、「アンネの日記」で調べても出てくるのは今のところ この一冊のみですが、世界中の誰もが利用できるWebサイトで、広告も出てこない健全な所です。 興味のある人は借りて読んでみてください。

目でみる「アンネの日記」 表紙 ISBN 4-16-810005-7

目でみる「アンネの日記」

編集 アンネ・フランク財団

https://archive.org/details/medemiruannenoni0000knie





First upload 2022.08.15