簡潔な自己紹介

Brief self-introduction



したいことはしつくし やりたいことはやりつくし、 作りたいものは作りつくした。 行きたい場所には行ったし 住みたい場所には住んだ。 食いたいものは喰って 抱きたい女は抱いた。 やがて食欲や性欲、過度の道楽は 精神の可動域(活動領域)や発展性を 制限、束縛するものだと悟った。

それからベジタリアンになり、 リキッダリアンになり... オナ禁は3日4日と()び続け、 やがて2ヶ月、3ヶ月、半年と重ね、 今や生涯決行を開始し何年も経つので 性欲とは何かすら忘れかけている。

瞑想合宿は合わせて何ヶ月か行き、 自宅でも朝晩と修練へ(はげ)んだ。 座禅は家でも外でも(たしな)み 相当に熟達した実感がある。 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の心身の観察も怠らず、 意識は意識をし、念には念を入れる。 心の調教、精神の鍛錬、 自己開発ほど楽しいことはない。 最高の喜びとやりがいだ。

意識を()()ませて意識を超克する時、 自己の限界と思っていた地点を 限界と思わなくなる この瞬間、 今まで「自分が思っていたこと」が デタラメ、虚妄だったと分かる。 「分かる」というか、そう「なる」。 アイデンティティー、自己同一性、 価値観が跡形もなく壊れる。壊れざるを得ない。 けだし、それらは「自分がそう思う」という 自己認識を拠り所として成り立つ。 ゆえに それら認識を自ら蹴とばす、飛び越える、 まして好きにひっくり返せたとしたら? ...そんなことは誰も想像できないし、しない。 まして やる人は更に(まれ)だろう。 が、もしやってみて成功したならば、 本当に「想像もできないこと」が起きる。 当たり前だ。「想像できること」は 自己の認識範囲だけなのだから。

この自意識という塀、自己認識という鉄条網、 自我という格子で作られた牢屋を自由意志でぶち破った(あかつき)、 もはや自由意志さえ要らぬ ただ自由な、ただただ自由な、 「自由」だの「不自由」だの 言語作用や概念領域をも脱し、 意識を意識する意識さえ意識せぬ 「あるがまま」がある。 いや、そんなものなど無いのだが 確かにそれはある。 有るとも無いとも言える。 言語作用や概念領域にあらぬ「それ」を どうやって言葉にできよう? 「有るがまま」なのか、 「ままが有る」のか。 「無いがまま」か 「まますら無い」のか... なんとでも言えて、 どうにも言い表せない。

ゆえに、あなたにもなんとかして これらを体験してほしいと思っているし、 そうする以外に「これ」を教える方法、 「それ」をわかってもらう(すべ)も無い。 この境地が分かるようになれば、 「人生とは、世界とは何なのか?」 「私は誰か?何の為に生きているのか?」 「この意識って何?」「神様っているの?」 という程度の哲学的問い、疑問は解決する。 実存的危機とか、漠然とした不安からも、 生涯無縁になることは約束しよう。 そもそも「心」や「精神」の 究極の実相がわかってしまった者が、 どうしてそれらの副産物に過ぎぬ 「認識」や「思考」によって 悩まされる事があるだろう? どんなに悩みたくても二度と悩めまい。

手品の種あかしを見たものが 同じ錯覚には騙されないように、 人生の謎や実存的な問いは解決される。 「ああではないか?」「こうではないか?」 「もしや世界はこうなっているのでは?」 など、考えることさえやめてしまう。 もちろん 考えたければ考えれるし、 昔の偉い人が書いた哲学書や 難しい思想書などを読んで 「この人は多分 こんなふうに  世界が見えていただろうなぁ」 「彼はこんな考え方だったのだろう」 と、人の考えや思考も類推はできる。 他人の心に共感して気持ちを()んだり、 思いやったり気(づか)ったりも出来るし、 むしろ心に大きなゆとりができる分 それら能力を増強するのも容易だ。 疑念や迷いから開放された思考の回転は早く、 洞察力は研ぎ澄まされ、直感にも優れる。 外界の情報を正しく(とら)え 的確に処理し、 行動や動きとして体にも現れるので 人生はずっと軽くて動きやすくなる。 悩みが()きた人間の体とは なんと軽く溌剌(はつらつ)としたものか!と、 つくづく生きるのも楽になろう。

死も さほど恐れなくなる。 そもそも死とは どういう事かと 体感で理解したも同然なので 格段に恐怖が減る。 恐怖とは「認識」から起こる。 認識のカラクリを見抜いている者は 「恐怖の仕組み」もわかってしまう。 高い場所や危険な所に立った際に 生理的な恐怖を感じる事があっても、 「死ぬ事」への恐怖は感じない。 「死」は、ただの概念だからだ。 ここで仮にあなたが、 「死とは概念だったのか。よしわかった  これからは死など もう恐れないぞ!」 と、自分に言い聞かせたとしても 信仰や哲学レベルでの理解なので、 それではまるで意味がなく、 つまり「わかっていない」。 よって「私は死にたくない」という 自己の消滅に対する恐れ、 死への恐怖は無くならない。

何かおかしいとは思わないか。 死んだ経験も無いのに、なぜ死を恐れる? 本能?遺伝子に組み込まれているから? 確かにDNAには先祖の経験した記憶や 情報が詰まっているかもしれないが、 単細胞生物まで(さかのぼ)ってみたとしても 死ぬ経験を遺伝子へと残せた個体など生物史上1つも無い。 死ねば生殖も細胞分裂も止まるのであるから、 死の記憶など出来ようものか。 なので「死を恐れる」など 本来ナンセンスだ。 (そら)が頭に落っこちるのを心配して アホ(ヅラ)しながら真上でも見てた方が、 いくらか現実的であるとすら言えよう。

空だって触ることさえ叶わぬ ただの概念かも知れないが、 少なくとも上を見上げれば見る事はできるし、 印象や雰囲気を感じ取る程度はできる。 「死」も感じてみたほうが良い。 「死とはどんなものだ?」と。 いったい「何が死なのか?」と。 なんとかして感じようと 色々と調べてみるのは有益だ。 「寝てるときは死んでるだろうか?」 「何も考えずボーッとしてる時は?」 「死んでる時と生きてる時の差は?」 なぜ有益かというと、 死を知ろうとすればするほど結局わからないので、 「では生きるとは何か?」と、 そちらの観察へ切り替わるからだ。 「生きてるって そもそも何?」 「どんな状態の時 私が居るのだ?」と その時、その都度、その刹那を よく観察し、注意深く見てみれば、 やがては生きる事の究極的な本質が 「意識」や「認識」や「判断」する事の 絶え間ない連続現象だと分かってくる。 ここまで来れば もうじき智慧が現れよう。 ちょいとその認識や判断の連続現象へ ちょっかいを出してみたくなったりもする。

座禅や瞑想などをやり始めて 「寝ないで認識や意識を止めてやるぜ」とか、 そんな遊び 試みをやり始めれば、しめたもの。 自分の判断パターンや思考アルゴリズムを解析して、 「絶対に自分がそうしないような判断」を 「自分がそう判断する」ように仕向けたり、 おもしろいことはいくらでも出来る。 些細なチャレンジであれば、 イモを食わないならイモを食ってみるとか。 中級編なら、 クモが苦手ならクモを触ってみるとか。 上級編になれば、ここに例など出さずとも 自分にはどんな実践が必要であるかを 自身で判断し決められるようになる。 例えば、合理性や効率や有意義さに 自分の判断や行動基準 全てを支配されているなら、 どれほど精神が拒否や拒絶の悲鳴をあげようと 週に1日は誰も見てない部屋でメモ用紙に ○と△と□を書き続け 出来上がった紙は捨てて その経験さえ誰にも話さずに黙っておくとか。 他にも1万円札を燃やしてみたり、 貯金箱の小銭を本物のドブに ジャラジャラ~ッ と捨てたり。 (募金箱へ入れるのもありだが、  それでは有意義の呪いから解かれない。  けど初めは無理せず 募金オススメ)

一見、苦行に見えたり、 たまに苦行もあるかもしれないが、 コツが掴めれば 苦じゃなくなる。 楽しみに加え、 充実感や達成感を味わえるようになれば、 さらなる実践と修練へ自然に励む。 前まで絶対にできなかった事が、 何のことなくできるようになる喜びは、 出来るようになった者にしか味わえない。 以前には見るだけで苦しみの感情や 憎しみの心に支配されていた自分の精神が、 いつの間にか その対象を捉えても 景色や背景のように意識へ引っかからず、 正しく認知 認識できるようになった時、 自らの精神が(まさ)しく浄化された実感を得る (これは意識へ”引っかからない”のであって、  ”意識できない”とか”鈍感になる”とは違う。  認知や認識は可能であるが、同時に生起していた  嫌な感情やトラウマ等に(わずら)わされず、  苦痛やストレスから自由という事) さらに進むと、発想さえ出来なかった事が発想できるようになる。 認識の上限も破れる(つまり限界がなくなり 超人になる)。 私の場合、それらの結果が 2年間をほぼ野菜ジュースや甘酒だけで過ごし、 リキッダリアンとして生活してみたことや フォーエバーオナ禁という性欲から開放された生活だ。 3度の飯よりオナニー大好きだった あのサル(かつての私)には、 現在の生活など想像もできないし、発想さえ出てこない。 今思えば、よくがんばったなぁ 自分... いや、自分を打ち破ったからこそ 今の自分なのだけどさ。

あれ...? ってか「自分」って何さ? あのサルの頃の自分と今の自分、 結局どっちが本当の僕なの? 来年の僕と 今の自分なら どっちが私? 来年の今頃の僕、 サルの頃の自分と 今これを書いてる私、 「あるがまま」はどれ? ってか「来年の今頃」って なんやねん。 それって今なのか、それとも来年? そもそも「時間」は実在すんの?

ここにダイヤルのついたフラフープみたいな物があって、 行きたい年代と時刻をダイヤルで調節して 壁に貼り付ければ過去の空間へと繋がり、 輪をくぐれば昔にヒョイッて行ける 便利な道具があるとするでしょ。 フラフープ 輪っかのあちら側が過去で こちら側が現在なのだけれど、 それって結局、この今現在の世界に過去の世界が繋がったのだから、 もうどっちも「今現在」じゃん。 過去側の世界では、 空間にいきなり穴が開いて 未来へ繋がったわけだけど、 それは過去の人からしてみれば 「今、輪っかの先に未来が見える!」 ってことでしょう? あっちもこっちも「今」だけで「現在」じゃん。

通りすがりA
通りすがりA

いやいや、その輪を(さかい)に あっちが過去、こっちが現代で 2つの別々の世界でしょ?


こっちから輪っかへ飛び込めば過去世界。 もう一度ヒョイッとこちらへ戻れば現在に帰れるし それらは違う世界だよ

通りすがりB
通りすがりB

...だって?   ほぉ、それじゃあ その輪っかへ私が腕を伸ばし、 手のひらだけ過去側に入れたとしよう。 それってどうなるのよ? 手のひらだけ過去にタイムワープして、 手首からこっちは現在にあるでしょ? では、その手のひらで かつて僕が使ってたフカフカ枕に触り、 フカフカした感触を感じたとします。 現在の僕が感じるその感触は 今の感触じゃないって事? それなら現在世界で感じるその感触は どこから来るわけ?

人ならもっとわかりやすいかな。 最近 自殺して死んだけど、 「みーちゃん」っていう 昔よく遊んでた知り合いがいる。 みーちゃんの写真 その輪が5年前に繋がっていれば、 向こうには その人がいる。 彼女がこちらを覗き込めば 「おぉ ○○君!なにしてんの?」 と、僕の事が見える。 その人が生きてた頃はロン毛だったので、 今のボウズ頭の私を見れば、きっと驚いて 「○○君、ずいぶんサッパリしたねぇ!」 と、向こう側で言うと思うが、 この場合ならどうだろう?

みーちゃんと僕は輪っかを境に 過去世界、現在世界と、きっぱりと別れていても、 面と向かって会話をしてる。 その場所、その空間、そこ。 こちらだろうが、あちらだろうが、 私だろうと、あなただろうと、 究極的な実際の世界、 けっきょくは「今」 要するに「そこ」 つまり「それ」 そっち側だけ過去で こっち側が現在だなんて、 そんな馬鹿な時空は成立しない。 というより時空「も」成立しない。 時間など認識上でのみ成立する単なる概念であり 空間も同じだ。 実際には存在しない。

確かに物と物の(あいだ)には()というか、(くう)というか、 ともかく我々は空間を はっきり認識する。 しかし「認識する」からといって それが実際に実存しているかは別だ。 全知全能の神を認識する者も世界中には大勢いるが、 本当のところ、そんなものは実在しない。 「唯一神」を信仰する宗教が世界に「三つ」あるのも、 よく考えれば腹を抱えて笑い転げたくなる話だ。 ともかく空間も実在しない。 概念以外のなんでも無い。

例えばトンボの目は複眼なので 多くの景色が同時に見えるから、 世界がいくつもあるように見えるかも。 では トンボが何億年もかけて、 人間みたいに進化して高度な知能を持ったとする。 とりあえず複眼からは16個の世界が見えるとしよう。 トンボ世界の3大宗教の一つに「複理教」という教えがあって、 全トンボ人の70%以上が信仰する大規模宗教だと思ってほしい。 その複理教の聖書には こう書かれている。

初めに16世界があった。 世は「16並行世界」たる 16層の次元にて成り立たん。 ここに(あまね)く世界を、遍く見通せし 曇りなき眼と真理を(さずか)りたる(なんじ)眷族(けんぞく)あり。

複理の書, 万法4章 11-6.

ってね。 自分の目から16通りの景色が見えるからって 「この世は16の並行次元が  重なりあって存在している」 などとは、寝言もいいところだ。 それどころか、上の聖書の引用では 「我らこそ、この世で最も尊い力を授かり  全ての真実を見通せる唯一の能力を持つ」 と、高らかに(うた)ってさえいる。

だが、この間抜けなトンボ人達と同じ間違い、 下手すれば余計にたちの悪いアホっぷりを 我々人類は全力でやってる可能性がある。 16個の景色が見えてしまう目なんて、 目ん玉や視神経の事をちゃんと調べて勉強を重ねれば、 トンボ人達だって自分らの宗教が間違いかもしれないと そのうち気づきそうなものだ。 そして私たち人間の問題は もう少し複雑で厄介になっている。 特に今は古今東西の様々な哲学や思想、 歴史や科学のデータさえ縦横無尽に調べて なんでも知ることができる。 知れたからと言って「わかった」とは別だ。 「わかった」からと言っても、 それは知識であり智慧ではない。 厄介なのは そんな事を繰り返すうちに 「わかった気になる」という状態だ。 これは正真正銘、最悪である。 この「わかったつもり」が 無知の根源であり、認識の誤謬であり、 自己欺瞞であり 諸悪の根源といえる。 この誤認識状態でいる限り、 誤った認識なので歪んだ思考が生まれ、 歪んだ思考から間違った結論が生じ、 間違った結論を元に行動すれば 望む結果や欲する成果は得られない。 そして「やはり、ああではないか?」 「いや、こうではないか?」と悩みも()き、 悩めば苦しいので不満や不安の多い人生になる。 いつまでたっても問題は一向に解決されない。 その状態で何か新しい知識やデータを 頭にインプットしてみたところで 同じ堂々巡りが続くのみ。 この問題こそ、真の問題として 正しく認識されねばなるまい。 (こういった問題の本質や道理を見抜く  鋭い認識や正しい認知を 智慧 と呼ぶ)

認識の欠陥から脱出するには それ相応の努力というか 特別な修行や訓練が必要だ。 もう一度はっきりと断言する。 「時間も空間もありえない」 「感覚的に認知や認識は出来るし  言語化して意思疎通さえ可能だが、  時空という物は現実には存在しない」 「時間や空間は実在する。というのは  全くのデタラメであり 虚妄である」 この断言を本気で納得し 完全に信じたとしても、 信仰や哲学レベルでの理解なので意味がない。 つまり「わかっていない」。 いくら頭で理解しても、 認識の欠陥、認知のバグ、 意識の混乱状態(エラー)に ほとんど効果などない。 この差を埋めていくには、 正しい認識を実践する為に日々の練習が必要になってくる。 それらが特別な修行や訓練ってわけだ。

誤認識に対して繰り返し正常な認識を上書きすれば、 少しずつではあるが 意識上では正しい認知が可能になるし、 反復練習は特に効果的だ。 なので しつこいようだが、 タイムスリップの話にまた戻る。 ともかく時間旅行は不可能だよ。 過去や未来の世界に飛んでいける タイムワープや時空間の飛び越しって、 実は絶対に起きないし、起こせない。 死んだ人にも二度と会えない (みーちゃん さようなら) このフラフープの輪っかに限らず、 突然ズバーンと未来へワープできる 自動車みたいなマシンとか、 机の引き出しが異空間と通じてて、 そこから行きたい次元へ移動し 好きな時代に飛び込めるとか、 カプセルに入り ああしてこうして、 開けて外へ出たら未来だとか過去だとか。 どんなシステムや仕組みだろうと、 実際に時間を移動したり、飛ばしたり、 ましてや遡るとか止めるのは100%不可能だ。 これはキッチリ100。 99%無理とか 99.99995%不可能とか そんな程度の話ではなくて、 文字通りの「絶対にありえない」。 これは私の意見だとか持論だとか、仮説だとか、定説だとか、 数式を使って証明した理論上の真実だ、なんていう話ではない。 いわんや 決して揺るがぬ俺様の信念さ!という精神論でもない。 「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」 「無限の直線を真ん中で切ったら  その半分の直線は有限か無限か?」 のような、言葉遊びや形而上学的な概念論ではない。 理屈をこね回す思想ごっこや、 雑学を放り込むだけの暇なコラム、 ゴミ知識やアフォリズムをひけらかし 最後は煙に巻く哲学談義でもないし、 やれ「最近の△△は けしからん」 とか言うための評論でもない。 すんげぇ ぶっちゃけた話だ。 真剣大真面目な、 君の将来にさえ関わる ぶっちぎりの現実的な事。 真理の話をしている。 過去現在の全てにおいて 一つの例外 一瞬の寸断さえ生じず、 何もかもを含め常時ぶっ続いた 不変かつ普遍的法則の話。 今もだし これからも。 これらは どれほど控えめに表現しても 「永久の真理」と言わざるをえないし、 もっと謙遜した別の表現があるなら あなたにも考えてほしいくらいだ。 つまりこの世が 「今」しか存在し得ないという、 言ってみれば当たり前すぎて 意図せぬ限り意識も認識もしない 至極当然の真実。 誰一人として逃げられぬ基本中の基本、 大・大・大前提の根本的な世界。 仮に全知全能の神が居ても、 そいつさえ「今」の範囲でしか 全能っぷりは発揮できないし、 全てを知っていたとしても 認識範囲は現在のみ。 この理論はWikipediaにも載ってるし 現在の量子物理学研究の定説として 各地各国の有識者も支持しており、 かのアインシュタインも言及... ってレベルの話じゃない。 逆に先進国のシンクタンクと 博士号論文をいくつも書き漁る大学教授と アカデミズムの最先端を走る学者らを結集させ、 最新のAIと世界中のスパコンを直列つなぎにして このデータを含めたネットの全資料とリソース、 精鋭知 集合知のダブルを駆使し 何千年間と 徹底的反論 反証を試みようと1ミリも覆せない。 せいぜい形而上学的な言葉遊びや 詭弁や屁理屈としての論破は出来ても、 現実的にこれらを「事実ではない」と 客観的データや確かな証拠に基づき 実証や証明などは絶対に不可能だ。 それ程に当たり前で当然の事を、 いつ どこでも 誰にでも当てはまる 極めて陳腐な これ以上ない程にまで 「超つまらない話」を私は今している。

少しおもしろい話はここからだ。 こんなつまらない当たり前のことを、 ほとんどの人は自覚も知覚もできない。 「心や精神の究極の実相を知る」だとか、 やれ「意識を超克する」だの「超人」だの、 さんざん大層なことが(のたま)われてきたが... ある意味で私のオススメする 心の調教、精神の鍛錬、自己開発とは、 超人というよりかは 究極につまらない 「常人」になる道とも言える。 この超つまらない当たり前の事を 当たり前に認識できる健常者、 常人こそが完成なのだ。 世間様には失礼に聞こえるかもしれませんが、 相対的に言えば圧倒的多数の人々は、 認識機能に著しい欠陥のある重度の障害者で、 認知の歪み(つまり奇形)が生じた奇形児で、 かつ重篤な病人であり、精神疾患だ。 あえて「重篤な病人」と表現したのは、 圧倒的多数に属するがゆえに病識が生じず、 「治療しよう」「治そう」とは夢にも思わない為だ。 誰だって自分が障害者だなんて認めたくない。 だから「重篤な(やまい)」と言わざるをえない。 重篤とは 「病気が重く 回復の見込みが無い様子」 という、辞書通りの意味である。 自覚こそ治療への第一歩だ。

仮に抜本解決する気が無くとも、 病識さえあるなら 少しは楽になる。 薬を飲みながらでも、 点滴を刺しながらでも、 いつ起こるかわからぬ発作や 発病にビクビク怯えながらでも、 病識があるなら きちんと対処はできる。 薬と表現したが、それは例えば 心を明るくしてくれる映画を見たり、 音楽を聞いて気分を高揚させたり、 落ち込んだ心を鼓舞しようと 自己啓発本を読んだり。 寂しい気持ちを埋めようと犬や猫を飼ったり、 タバコや酒、麻薬(ドラッグ)、向精神薬(処方された物を含む) といった実際の薬という場合もだ。 特に酒やタバコなどは 精神的な薄弱者には必須の ありふれた常備薬と言えよう。

抜本的治療をせずとも、 とりあえずは自分の奇形に合わせ 義肢や義足を差し込むなり コルセットで補強するなり、 うまく立ち回ることはできる。 騙し騙しの対処療法でやり過ごすのは、 なにも悪いことではない。 やり過ごし方、ごまかす方法は様々で、 下手をしたら友人を作る事や結婚や子育てに至るまで、 じつは単なる麻薬なのかもしれない。 ペットを可愛がったり 近所の野良猫へ 餌を与える事さえも同じ行為になりうる。 自分の事を放って他人にかまけている間、 問題を見ないで済むし忘れていられる。 だが抜本的な解決には なっていない。 痛み止めを飲んで問題を先送りしただけ。 それはそれで、 その都度いくらか平穏になれるかもしれない。 病との付き合い方は人それぞれ。 人生の歩み方もしかり。

だが よく観察して欲しい。 結婚して子供がいる人達が 完璧な幸福を実現した連中か? 犬や猫やペットに囲まれ 餌や糞の世話で大忙しの人々が 全員キラキラと輝いて永遠に幸せか? 伴侶も子供も動物も、 果ては何万円も課金したオンラインゲームのアイテムや、 永遠の友情を誓ってくれる架空のキャラに至るまで、 いずれ死ぬか やがて消え去る。 つまり そのうちなくなるのだ。 そのうち効果が消えてしまうものは 根本的治療になってはいない。

なので抜本的解決、根本治療こそ 真の安らぎと幸福をもたらす。 心の平安を得るには それ以外は無い。 全知全能の神を崇めたり、 阿弥陀様や観音様にすがったり、 あるいはブツブツと題目を唱えたり、 ジャラジャラと数珠をこすったり。 占星術を学ぶわ、数秘術で占うわ。 ちょび髭の総統に服従して ヨーロッパで戦争してみたり、 髭もじゃの教祖に帰依して 地下鉄で毒ガス撒いてみたり... 歌う、踊る、飲む、食べる。 効果のある無しに関わらず、 人類は星の数ほど膨大様々な対症療法を生み出した。 だが 抜本治療、根本解決の道を発見できる者は少ない。 発見したとしても、いざ歩もうとする人は さらに少ない。 歩みさえすれば いずれ治療は終わり 解決(完治)に至るが、 その治療法を他人へ伝えれるかどうか、 教えれるか否かは別の話であり、 それをする者は もっと少ない。

私とて「あれ」だの「それ」だの、 「超人」だの「常人」だの、 なんだかんだ色々と例えてみたり、 どうにかして心の調教や精神の鍛錬、 自己開発へ興味関心が向くように 文章を書く以外 なにも出来ない。 メソッドや方法論の提供もできない。

一番確かで簡単な実践といえば、 「意識は意識をし、念には念を入れる」や 「よく気をつけて、よく気づく」など、 本当にこれだけ。 シンプルだが 確実に効果があるので、 どうか日頃より心がけてほしい。 何に気づけば良いのだろう?とか、 念には念を入れて何をするのだ?とか、 「考える」とやっかいだ。 「考えてる」と「気づけない」。 意識も「考え」にもっていかれる。 そういった諸々(もろもろ)も、心をよく見張れば 自然とわかってきて 感じもつかめてくる。 間違っても考えまくって哲学したり、 あれこれ思索や思想にふけって 「夢中」になってはならない。 考えや思考に夢中になってたら気づけ。 「あ、いま考えてた」と気づけ。 「夢中だった」と気づけ。 妄想をしていたならば気づけ。 「あ、いま考えていた」と気づけ。 「妄想に夢中だった」と気づけ。 そして「夢から覚めろ」 哲学や思想を勉強するのも悪くはないが、 それらはあなたを「覚ます」ことはない。 知識が増え、考えが増え、 その結果なにも苦しみが減らず 悩みもなくならない。 ...と気づいたなら、それらへ近づくな。 そう。気づけば「覚める」のだ。 そして覚めれば よく気づく。 これも自然と気がつく。 自然と気づくようになるまで気づく。 よく気をつけて「気づいて」いよう。 それらを心がけて「意識する事」や、 忘れぬよう「念ずる事」がとても重要だ。 なので「意識は意識をし 念には念を入れる」 「よく気をつけて、よく気づく」となる。 気づきにも気づけるし、意識も意識できる。 難しく考えず 実践あるのみ。 練習すればうまくなり、おもしろさもわかる。

少し前で紹介した いくつかの方法も 具体例として参考になるかもしれない (「死」も感じてみたほうが良い ~ 募金オススメ まで) そして抜本解決の成否は、 各自の試行錯誤や真剣な取り組み度合いにかかっている。 嘘偽(うそ いつわ)りのない素直でまっすぐな心による 日々の正直な自己観察がとても大事だ。 が、この”正直な自己観察”が何より難しい。 誰しも自我や自己の人生体験には 一定の愛着や感情的意味づけがあるので、 何かにつけ過大評価、過小評価を伴っている。 幼少期に親から受けた抑圧、しつけ、刷り込みも、 価値判断はおろか 感情の起伏にさえ関わっている (箸の持ち方が”正しくない”人を見た時 なにか感じないか?) トラウマや偏見による誤謬、見誤りは常に起きるし、 常に乗り越え 修正していかねばならない。 他人に何か認定してもらう必要や、 誰かと競う事ではないので 気楽にやれば良い。 私の助言はここまで。

そもそも人に頼るのはあまり良くない。 こちらも全てが完治したかといえば、 微妙なバグ、認知バイアス、認識の偏り、 特定事象に対する脊髄反射な反応といった 修正可能な箇所や課題が少し残っている。 「我こそは健常者なり!」 と、胸を張って堂々と言えるし、 相手が哲学者、思想家、メンサ会員、 博士号の物理学者でも 量子力学の権威でも、 たとえ全知全能の神であったとしても、 「文句あるなら つけてみやがれ」 と、中指おっ立ててケンカさえ売れる (めんどくさいからやらないし、  中指を立てる必要など全くない。  皆が幸せでいて欲しいと願ってる) が、自分にやるべき事が残っているのに 人にかまう暇はないはずだし、 そうすべきでもないのだ。

けれど、ここに書かれた内容に いくらか説得、または影響を受け、 だれか一人でも心の仕組みや 精神のカラクリに興味を持ったり 勉強する気になってくれたなら、 これ程うれしいことはない。 「意識とは何ぞ?」と意識してみたり、 「この認識は なぜそう認識する?」 と、認識の仕組みを認識してみたり。 精神の修養、自己の研鑽、 内面の観察や修行や鍛錬へと 少しでも気が向いてくれたのなら、 私が人類へ成した貢献は絶大になる。 その功績は何より誰より、 あなた自身へ恵みをもたらすだろう (つまり計り知れない恩恵がある) これも当たり前の話だ。 心の平安や安らぎ、何にも動じぬ平常心を備えた人というのは、 ただ居るだけで 場の雰囲気が和やかで気持ちよくなるものだ。 頼りにもなる。 逆に情緒不安定で不満と愚痴ばかりで、 いつもイライラしている者とは 誰だって一緒には居たくない。 そして片時も離れず、 一生共に居なくてはならぬ 最も身近な人物とは自分自身だ。

ゆえに、自らの平安と安らぎを 誰にも奪われぬ内なる自己へと確立し、 不動の精神と軽やかな心に根ざした 安穏たる居城を完成させよう。 これこそ万人共通にして 最優先事項だ。

あ、万人共通と言ったが 当てはまらない者もいた。 そのような者が居るかどうか私にはわからないし、 心の底では誰しも自身の幸せを望むはずだが、 強いて言うのであれば「幸せに興味がない」 または「幸福になりたくない」のなら、 ここまでの話は何も関係なかった。 というわけで言い直そう。

安らぎと調和、幸福の源泉を 誰にも侵せない内なる自己に確立し、 平穏なる境地へと辿り着こう。 「幸せを望む」のであれば、 これこそ最優先課題だ。

あなたに智慧が現れますように。

大事な箇所は太字にしました。 つなげると以下のような短いフレーズになります。

自分の事を放って 他人にかまけて問題を先送り  いずれ死ぬか やがて消え去る。  抜本的解決、根本治療こそ真の安らぎと幸福  心をよく見張れ 「夢から覚めろ」

繰り返し唱えて覚えれば護経にもなるし、紙に書いて便所へ貼れば大事な事を忘れずに済みます。 起きる時、トイレの時、歯を磨く時、食事の時、寝る時、常に心をよく見張って観察してみてください。 フレーズは意味が同じであれば、自分のやる気が出る言葉や 覚えやすい句へ変えても問題ありません。

初版 2022.05.17






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