他人の書いた文章を自分が改行してみたらどうなるのか実験
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 バージョン1 


退屈が怖いと感じるのはなぜなのか?【退屈の恐怖】

今回は、人が退屈を恐れる理由について お話したいと思います。 あなたは退屈が怖いでしょうか? 僕が思うに、自分が退屈を恐れているということに 自覚的な人はそれほど多くはありません。 多くの人は、自分が無自覚に退屈を 避けようとしているということに気づいていません。 にも関わらず 「そもそも、退屈してる暇がない」と 言ったりします。 自分が退屈を恐れているということに 気がついているということは、 自分自身を良く観察できている ということでもあります。 でも、この世の中では 退屈の正体について語られることは ほとんどありません。 語られるのは 「いかにして退屈を避けるか?」 ということばかりです。 でも、結局のところ、 退屈と退屈を避けようとすることは イタチごっこであって 終わりがありません。 人生ってそんなものなんでしょうか?

死ぬより退屈の方が怖い?

退屈は、死ぬよりも怖いと 表現されることがあります。 死はいつ起こるか 分からないですよね。 死への恐怖というのは、 未来への漠然とした恐怖です。 でも、退屈の場合、 今ここにある恐怖です。 なので、多くの人にとって、 退屈というのは死よりも身近であって、 死よりも恐れるべきものかもしれません。 でも、退屈への恐怖と、死への恐怖は、 まったく別のものじゃありません。 退屈への恐怖というのは、 今死ぬことへの恐怖です。 退屈を避けたいと思う この衝動に理由はあるのか? 退屈を怖いと感じる謎のひとつに、 その理由が分からないというのがあります。 大抵の場合、恐怖を感じる場合には、 その理由があります。 例えば、拳銃を突きつけられるならば、 人は恐怖を感じると思います。 月明かりもない暗い山の中を1人で歩くならば、 人は恐怖を感じるんじゃないかと思います。 また、好きな人に嫌われそうになるならば、 恐怖を感じるかもしれません。 でも、退屈には、そういった理由が みつけられません。 強いていうならば、 何もすることができないということが 恐怖を感じる理由です。 でも、その理由は、 人の直感的な理解からはズレています。 頭で考えるなら、 「何もする事ができない事に  なんでそんなに恐怖を  感じなきゃいけないんだ?」 ということになります。 でも、実際のところは、 退屈を避けたいという衝動が、恐怖が、 感情を感じるこの場所で湧き上がるわけです。

意志として存在できないという恐怖

退屈を怖いと感じることには、 意志が関わっています。 退屈を恐れているのは意志です。 体は退屈を恐れてはいません。 もちろん、体は適度に動かしたほうがいいのですが、 退屈を恐れたりはしません。 じっと動かずに2時間ほど映画を観たとしても、 体がそのことに対して恐怖を感じることはないと思います。 でも、意志は、2時間の間、 退屈しなければいけないとなると 恐怖を感じます。 体みたいに、ジッとしていればいいようなものです。 2時間の間、ジッとしていればいいんです。 でも、意志にはそうすることができないんです。 多くの人は、意志とは心であって、 自分自身をコントロールするために 必要な存在だと思っているんじゃないでしょうか? 体みたいに物理的な存在ではないけれども、 精神的な存在として、常にここにいると 感じているんじゃないでしょうか? でも、実際のところはそうじゃないんです。 意志というのは、目的がなければ 存在することができないんです。 退屈をするということは、 何も目的がないということであり、 意志は存在理由を失います。 だからこそ、意志は退屈を恐れます。 言ってみれば、退屈を避けたいという衝動というのは、 意志にとっての断末魔みたいなものなんです。 断末魔とは、死に際の叫びです。 意志にとって、退屈の中にとどまるというのは 死にゆくことと同じなんです。

何もしないことは退屈なことか?解放的なことか?

意志には実体があるわけではないので、 実際に死ぬということはありません。 ただ、退屈の中では、まるで死ぬかのように 意志には感じられるというだけです。 そして、退屈には終わりがあります。 「何もしないこと」というのは、 必ずしも退屈なことじゃありません。 場合によっては、それは解放的なことでもあります。 仕上げなければいけない仕事をやり遂げた後、 多くの人は、「何もしないこと」の解放感を 楽しむんじゃないでしょうか? その状態は、退屈とは何が違うんでしょうか? どちらも何もしていない状態であることには 変わりがありません。 にも関わらず、一方では退屈を感じ、 一方では解放感を感じます。 それは、なぜなんでしょうか? 仕事をやり遂げた後には、人は、 一時的に目的を失っています。 目的を持ちたがる意志が、 一時的に消えています。 人は、その状態を解放感として感じます。 これは、不思議なことです。 人は、この解放感を求めているにも関わらず、 意志として、この解放感を無自覚に覆い隠しているんです。 むしろ反対に、意志として退屈という苦痛を生み出します。 多くの人は、この関係性に気づいていません。 解放感を感じるのは、目標を達成するからなのではなく、 意志が消えるからなんです。 そして、意志は、 自身の意志で消える(黙る)ことが可能です。 このことを指して、探求の世界では 「明け渡し」という言葉が使われることがあります。 (僕はあまり使わないのですが) 意志として目標を手放すこと、 コントロールしようとすることを手放すことは、 恐ろしいことのように感じるかもしれません。 でも、それは勘違いなんです。 だって、意志が消えたとしても、 あなたは消えていないし、 むしろ、解放感を感じているんです。 あなたは実際のところは意志ではなく、 意志を超えた存在です。 そのことに気づき、 意志として実在性を失うことができるならば、 退屈は解放感へと変わります。

2021.07.24





 バージョン2 


退屈が怖いと感じるのはなぜなのか?【退屈の恐怖】

今回は、人が退屈を恐れる理由についてお話したいと思います。 あなたは退屈が怖いでしょうか? 僕が思うに、 自分が退屈を恐れているということに 自覚的な人はそれほど多くはありません。 多くの人は、 自分が無自覚に退屈を避けようとしているということに気づいていません。 にも関わらず 「そもそも、退屈してる暇がない」 と言ったりします。 自分が退屈を恐れているということに気がついているということは、 自分自身を良く観察できているということでもあります。 でも、この世の中では 退屈の正体について語られることはほとんどありません。 語られるのは 「いかにして退屈を避けるか?」 ということばかりです。 でも、結局のところ、 退屈と退屈を避けようとすることはイタチごっこであって 終わりがありません。 人生ってそんなものなんでしょうか?

死ぬより退屈の方が怖い?

退屈は、死ぬよりも怖いと表現されることがあります。 死はいつ起こるか分からないですよね。 死への恐怖というのは、 未来への漠然とした恐怖です。 でも、退屈の場合、今ここにある恐怖です。 なので、多くの人にとって、 退屈というのは死よりも身近であって、 死よりも恐れるべきものかもしれません。 でも、退屈への恐怖と、 死への恐怖は、まったく別のものじゃありません。 退屈への恐怖というのは、今死ぬことへの恐怖です。 退屈を避けたいと思うこの衝動に理由はあるのか? 退屈を怖いと感じる謎のひとつに、 その理由が分からないというのがあります。 大抵の場合、 恐怖を感じる場合には、その理由があります。 例えば、拳銃を突きつけられるならば、 人は恐怖を感じると思います。 月明かりもない暗い山の中を1人で歩くならば、 人は恐怖を感じるんじゃないかと思います。 また、好きな人に嫌われそうになるならば、 恐怖を感じるかもしれません。 でも、退屈には、 そういった理由がみつけられません。 強いていうならば、 何もすることができないということが恐怖を感じる理由です。 でも、その理由は、 人の直感的な理解からはズレています。 頭で考えるなら、 「何もする事ができない事になんでそんなに恐怖を感じなきゃいけないんだ?」 ということになります。 でも、実際のところは、 退屈を避けたいという衝動が、恐怖が、 感情を感じるこの場所で湧き上がるわけです。

意志として存在できないという恐怖

退屈を怖いと感じることには、 意志が関わっています。 退屈を恐れているのは意志です。 体は退屈を恐れてはいません。 もちろん、体は適度に動かしたほうがいいのですが、 退屈を恐れたりはしません。 じっと動かずに2時間ほど映画を観たとしても、 体がそのことに対して恐怖を感じることはないと思います。 でも、意志は、2時間の間、 退屈しなければいけないとなると恐怖を感じます。 体みたいに、ジッとしていればいいようなものです。 2時間の間、ジッとしていればいいんです。 でも、意志にはそうすることができないんです。 多くの人は、意志とは心であって、 自分自身をコントロールするために 必要な存在だと思っているんじゃないでしょうか? 体みたいに物理的な存在ではないけれども、精神的な存在として、 常にここにいると感じているんじゃないでしょうか? でも、実際のところはそうじゃないんです。 意志というのは、 目的がなければ存在することができないんです。 退屈をするということは、 何も目的がないということであり、 意志は存在理由を失います。 だからこそ、意志は退屈を恐れます。 言ってみれば、退屈を避けたいという衝動というのは、 意志にとっての断末魔みたいなものなんです。 断末魔とは、死に際の叫びです。 意志にとって、 退屈の中にとどまるというのは死にゆくことと同じなんです。

何もしないことは退屈なことか?解放的なことか?

意志には実体があるわけではないので、 実際に死ぬということはありません。 ただ、退屈の中では、 まるで死ぬかのように意志には感じられるというだけです。 そして、退屈には終わりがあります。 「何もしないこと」というのは、 必ずしも退屈なことじゃありません。 場合によっては、それは解放的なことでもあります。 仕上げなければいけない仕事をやり遂げた後、 多くの人は、「何もしないこと」の解放感を楽しむんじゃないでしょうか? その状態は、退屈とは何が違うんでしょうか? どちらも何もしていない状態であることには変わりがありません。 にも関わらず、 一方では退屈を感じ、 一方では解放感を感じます。 それは、なぜなんでしょうか? 仕事をやり遂げた後には、 人は、一時的に目的を失っています。 目的を持ちたがる意志が、一時的に消えています。 人は、その状態を解放感として感じます。 これは、不思議なことです。 人は、この解放感を求めているにも関わらず、 意志として、この解放感を無自覚に覆い隠しているんです。 むしろ反対に、意志として退屈という苦痛を生み出します。 多くの人は、この関係性に気づいていません。 解放感を感じるのは、 目標を達成するからなのではなく、 意志が消えるからなんです。 そして、意志は、 自身の意志で消える(黙る)ことが可能です。 このことを指して、探求の世界では 「明け渡し」という言葉が使われることがあります。 (僕はあまり使わないのですが) 意志として目標を手放すこと、 コントロールしようとすることを手放すことは、 恐ろしいことのように感じるかもしれません。 でも、それは勘違いなんです。 だって、意志が消えたとしても、 あなたは消えていないし、 むしろ、解放感を感じているんです。 あなたは実際のところは意志ではなく、 意志を超えた存在です。 そのことに気づき、 意志として実在性を失うことができるならば、 退屈は解放感へと変わります。

2023.01.11





 バージョン3 


退屈が怖いと感じるのはなぜなのか?【退屈の恐怖】

今回は、人が退屈を恐れる理由についてお話したいと思います。

あなたは退屈が怖いでしょうか? 僕が思うに、自分が退屈を恐れているということに自覚的な人はそれほど多くはありません。 多くの人は、自分が無自覚に退屈を避けようとしているということに気づいていません。 にも関わらず「そもそも、退屈してる暇がない」と言ったりします。 自分が退屈を恐れているということに気がついているということは、自分自身を良く観察できているということでもあります。

でも、この世の中では退屈の正体について語られることはほとんどありません。 語られるのは「いかにして退屈を避けるか?」ということばかりです。 でも、結局のところ、退屈と退屈を避けようとすることはイタチごっこであって終わりがありません。

人生ってそんなものなんでしょうか?

死ぬより退屈の方が怖い?

退屈は、死ぬよりも怖いと表現されることがあります。 死はいつ起こるか分からないですよね。

死への恐怖というのは、未来への漠然とした恐怖です。 でも、退屈の場合、今ここにある恐怖です。 なので、多くの人にとって、退屈というのは死よりも身近であって、死よりも恐れるべきものかもしれません。 でも、退屈への恐怖と、死への恐怖は、まったく別のものじゃありません。 退屈への恐怖というのは、今死ぬことへの恐怖です。 退屈を避けたいと思うこの衝動に理由はあるのか?

退屈を怖いと感じる謎のひとつに、その理由が分からないというのがあります。 大抵の場合、恐怖を感じる場合には、その理由があります。 例えば、拳銃を突きつけられるならば、人は恐怖を感じると思います。 月明かりもない暗い山の中を1人で歩くならば、人は恐怖を感じるんじゃないかと思います。 また、好きな人に嫌われそうになるならば、恐怖を感じるかもしれません。

でも、退屈には、そういった理由がみつけられません。 強いていうならば、何もすることができないということが恐怖を感じる理由です。 でも、その理由は、人の直感的な理解からはズレています。 頭で考えるなら、「何もする事ができない事になんでそんなに恐怖を感じなきゃいけないんだ?」ということになります。 でも、実際のところは、退屈を避けたいという衝動が、恐怖が、感情を感じるこの場所で湧き上がるわけです。

意志として存在できないという恐怖

退屈を怖いと感じることには、意志が関わっています。 退屈を恐れているのは意志です。体は退屈を恐れてはいません。 もちろん、体は適度に動かしたほうがいいのですが、退屈を恐れたりはしません。 じっと動かずに2時間ほど映画を観たとしても、体がそのことに対して恐怖を感じることはないと思います。 でも、意志は、2時間の間、退屈しなければいけないとなると恐怖を感じます。 体みたいに、ジッとしていればいいようなものです。2時間の間、ジッとしていればいいんです。

でも、意志にはそうすることができないんです。 多くの人は、意志とは心であって、自分自身をコントロールするために必要な存在だと思っているんじゃないでしょうか? 体みたいに物理的な存在ではないけれども、精神的な存在として、常にここにいると感じているんじゃないでしょうか?

でも、実際のところはそうじゃないんです。 意志というのは、目的がなければ存在することができないんです。 退屈をするということは、何も目的がないということであり、意志は存在理由を失います。 だからこそ、意志は退屈を恐れます。 言ってみれば、退屈を避けたいという衝動というのは、意志にとっての断末魔みたいなものなんです。 断末魔とは、死に際の叫びです。 意志にとって、退屈の中にとどまるというのは死にゆくことと同じなんです。

何もしないことは退屈なことか?解放的なことか?

意志には実体があるわけではないので、実際に死ぬということはありません。 ただ、退屈の中では、まるで死ぬかのように意志には感じられるというだけです。 そして、退屈には終わりがあります。

「何もしないこと」というのは、必ずしも退屈なことじゃありません。 場合によっては、それは解放的なことでもあります。 仕上げなければいけない仕事をやり遂げた後、多くの人は、「何もしないこと」の解放感を楽しむんじゃないでしょうか? その状態は、退屈とは何が違うんでしょうか? どちらも何もしていない状態であることには変わりがありません。 にも関わらず、一方では退屈を感じ、一方では解放感を感じます。 それは、なぜなんでしょうか?

仕事をやり遂げた後には、人は、一時的に目的を失っています。 目的を持ちたがる意志が、一時的に消えています。 人は、その状態を解放感として感じます。 これは、不思議なことです。 人は、この解放感を求めているにも関わらず、意志として、この解放感を無自覚に覆い隠しているんです。 むしろ反対に、意志として退屈という苦痛を生み出します。 多くの人は、この関係性に気づいていません。 解放感を感じるのは、目標を達成するからなのではなく、意志が消えるからなんです。 そして、意志は、自身の意志で消える(黙る)ことが可能です。 このことを指して、探求の世界では「明け渡し」という言葉が使われることがあります。(僕はあまり使わないのですが)

意志として目標を手放すこと、コントロールしようとすることを手放すことは、恐ろしいことのように感じるかもしれません。 でも、それは勘違いなんです。 だって、意志が消えたとしても、あなたは消えていないし、むしろ、解放感を感じているんです。

あなたは実際のところは意志ではなく、意志を超えた存在です。 そのことに気づき、意志として実在性を失うことができるならば、退屈は解放感へと変わります。

2023.01.11