私が思うところの、「悟り」についてのいちばんのトラップって、
「覚者」「悟り人」などと言われる人たちが
どうも「叡智ありまくり」な「賢そう」な雰囲気出しちゃってるところ
じゃないかなと思ってるんですけど、どうでしょう。
だってね、もし、ある場所に「本当に悟っている人」が三人くらい集まって、
「悟り」について語りあったとしたら、以下のようになるんじゃないかと思うのです。
「悟りって、ツッコミ待ちのボケみたいなもんだよね〜」
「だよね〜、ギャハハハハ!!」
...... Fin.
でも、「本当に悟ってる人」なら、この会話だけで、
「お、それな〜!」て感じで、完全同意してもらえると思うんですけど(笑)
ところが、「この世」に存在している(ように見える)「覚者」「悟り人」って、
たいがい、叡智ありまくりそうな外観や物腰、存在感ですよね.。
発する言葉、記す言葉の、まあ賢そうなことといったら(笑)
ラマナ・マハルシなんて、なーんか上半身裸だし、やたら瞳キラキラしてるし、
「ただ者じゃない感じ」をぐいぐい前面に出しまくってますもんねえ。
しかもこういう「覚者」の人たち(だいたいおじさんが多いですね)は、
やたらに深淵そうな語り口だの、詩的な言葉だの、哲学的な言葉だのを使います。
深い愛や慈悲や神聖さを感じちゃう言葉だったりすることもありますねえ。
で、こういう賢そうな「悟り人」「覚者」の、
以下のような言葉に、私の意識はついつい着目してしまうことがあるのです。
「退屈のもっと奥に行け」
「悟りをつかむな」
「それは悟りそこねだ」
「そこはまだ悟りではありません。別物です。それは覚醒体験です」
「それは、今にいないからだ」
「悟るとすべてがはっきりする」
「悟ると探究が完全に終わる」
「そこを悟りだと思っている人がいるが、そこで止まるな、まだ先に行け」
「悟りの五十二段階」
これらの言葉を見ると、私の意識はすぐに、
「あれ? 自分の至った悟りは、まだ本当の悟りではないのかな?」
なんて考えはじめてしまうんですよ。
ついつい、自分が「すでに悟ってる人」であったことを忘れてしまうんですね(笑)
この「叡智ありまくりそうな、賢者そうな悟りおじさん」のトラップ、
なかなか困ったもんです。
こういう、瞳キラキラで上半身はだか、もしくは髭ぼうぼうで落ち着いた感じで、
「叡智ありまくり」な雰囲気で、なんか詩的で哲学的っぽい感じで、
シンプルなのか回りくどいのか、どっちか分からんがなという言葉で、
悟りについて深淵な話っぽく語ってる「覚者」の人の説法会に、
でっかいブルーのドラエもんの着ぐるみを着て押しかけていって、
「ウィーーッス、わたくし生まれた時から天上天下唯我独尊の悟り人でーーす!!」
と叫びながら、「ウンジャラゲの歌」とか熱唱してみたいですね。
(面倒くさいのでしませんけど)