昨日、ふいに、小さな理解が訪れた。
いや、訪れてしまった、と書いたほうがいいのかもしれない。
そういったものは、いつでもはじめは、ごく小さな違和感や疑問から始まった。
私は過去のあるとき、「悟り」について語る、とある人々を観察していた。
そして今ふたたび、そのうちの一人が、かつてとは別の人と語り合う姿を目撃した。
興味深いことに、その語り合うふたりの主張は、8割までは共通しているのだ。
ところが、あとの2割ほどが異なっている。
その2割ほどの異なりが、諍いらしきものを生み出しているようだった。
この件は、互いの主張の異なりが2割ほどという「小さな隔たり」だったために、
その奥にある「核の問題」を見えにくくさせていた。
この「異なり」が、2割どころか、5割、7割、9割の隔たりとなる例は、
そもそもから、この世界に溢れていたじゃないか?
そして私は、昨日、自ら記していたのだ。
「悟り」とは「真理それ自体ではあれないが、真理を指さすことができるものである」
この記述は、なぜ、8割方は共通することを語る者同士が、
自らの「考え、概念」の異なりを諍いの種とするのかという疑問を、
解き明かすための「道具としての言葉」になりそうだ。
私はこれまでの真理探求の道のりで、いつも、幾度も、
自らの意識が自らに見せていた「虚偽」を、自ら暴いてきた。
「本当だと信じこんだなにか」は、いつも「嘘だったこと」が、自らによって暴かれた。
だから、そこはかとなく、ずーっと思っていたのだ。
この通低音は、確かにずっと、自らの内に流れ続けていたものだったじゃないか。
「悟り」もまた、自らが採用した、「強烈な思い込みの概念のひとつ」に過ぎないものなのだ。
故に、「悟り」もまたその内部に、自らを破壊させる種を、あらかじめ持っている。
そのことに、気づいた。
いや、気づいてしまった、と書いたほうがよいのかもしれない。