「願望実現」という項目は、私の探求道の中においては、

 

最後あたりにドドンと立ちはだかる、大きな関門となった項目でした。

 

なぜなら私は、「どうしても実現したい大きな夢」を強烈に握りめている、

 

というパーソナリティで、願望実現に対する執着が強いタイプだったからです。

 

私のようなタイプじゃなければ、願望実現や思考の現実化といった項目って、

 

そこまで強烈な「苦=煩悩=執着」の因子とはならず、こだわりも薄いかもしれません。

 

 

例えば、私の幼馴染は、

 

「毎日のほほんと生きられて、推し活が楽しめたら良し」

 

というタイプで、大きい野望なんて頭に浮かんで来ないし、目立ちたくないタイプ。

 

例えば、私の夫は、

 

「お金は大好きだけど贅沢がしたい訳でもなく、人の頭に立ちたくなく、目立ちたくない」

 

というタイプで、会社勤めですが、出世が嫌で逃げ回ってます。

 

彼らのことを見ていると、自分と比べて承認欲が希薄なんだな〜とよく感じます。

 

こういったタイプの人たちは、目立ったり人より上に行くような人生になると、

 

むしろストレスを感じて、しんどくてやってられないようです。

 

 

 

それに比べて私の頭の中はどうなっているかというと、大いなる夢が渦巻くタイプです。

 

なかなか恥ずかしげもない大望を抱いているのですが、

 

しかしながら、どんな「大きい夢」の思考や夢想や野心を抱こうと、

 

それらは自動的に頭に浮かんでくるのだから、自分の責任ではないよね、と思います(笑)

 

 

こういうところが「自由意志はない」という観点で生きることの利点だと思いますね。

 

頭に浮かぶ思考に対する責任を放棄、あるいは、天に返上して明け渡すことで、

 

余計なプレッシャーや自責の念や罪悪感や恥や、といったものから解放されるという生き方です。

 

 

自我が産み出す思考と感情は、生まれながらセッティングされたプログラムのようなもので、

 

上記にあげた身近な人たちの頭の中には、私のような考えは微塵も浮かんでこないのです。

 

「やりたい」という思考や感情や意欲自体が、自我の中に発生しないようです。

 

私も「W杯に出場したい」とか、思い浮かんだことないし、やりたくないです(笑)

 

 

 

そんなこんなで、生まれた時から「大きな夢」のプログラムを握りしめていたらしい私は、

 

こどもの頃から漠然と、自分の将来についての夢もありました。

 

その夢はブレがなかったので、そのまま「こども時代の夢」を実現した仕事に就きました。

 

それなりに評価も得て、はたから見ると順風満帆なほうに見えていたのではないかと思います。

 

「このまま進めば、それなりの場所までいくだろう」とも見えていたかと。

 

ところが私は、「とてもじゃないが、こんな人生のままでは満足できない」「このまま死ねない」

 

と感じて、探求道を歩むと同時に、それまで多少なり築いてきたものを全て捨てました。

 

積み上げた努力の結晶である実績を、潔くかなぐり捨てることが、

 

自分の探求道においては、最も怖かったことです(笑)

 

 

この頃は「帰るための橋を焼き捨てる」という言葉によく救われていました。

 

 

 

 

 

  それで、願望は実現するの? どうなの?

 

 

 

で、自分語りはいったん置いといて、

 

「願望実現」についての、今の自分に語ることのできる世界像を書きます。

 

とはいえ、「源の意識」の視点から見たならば「毎瞬の体験すべてが願望実現している状態」

 

と語ることができるかとは思いますが。

 

(そちらのほうが本質的だし、だからこそ「生きてるだけでまるもうけ」なのですが)

 

しかしこの場ではひとまず、ごく一般的に私たちの「自我の意識」が持つ願望、つまり、

 

「お金が欲しい」「結婚したい」「成功したい」「歌手になりたい」「モテたい」

 

「安心したい」「ゆっくりしたい」「安定が欲しい」「のんびり暮らしたい」

 

などなどの現世欲的なものに焦点を当てて語ります。

 

すると、悟りの視座を通した「私の答え」は以下のようになります。

 

(あくまで私の答えです)

 

 

 

・願望が実現するかどうか? については「分からない」の一択

 

・願望が実現するかどうか分からないことこそ、人生最大の面白さであり歓喜

 

・自我の願望があますことなく全て叶うなら、その人生はめちゃめちゃ退屈だろう

 

・自分の人生がどのような「大いなる望み」を内に隠しているかを、自我は知らない

 

・自分の人生に内包された「大いなる望み」を知るためには「生きる」しかない

 

・「大いなる望み」を体験したときはじめて、「ああこの歓喜を味わいたかったのだ」と知る

 

 

 

こんなところですね。


で、過去の自分の人生を眺めてみるならば、

 

実際のところ、「願望が実現した!」「思考が現実化した!」と感じる、

 

いわゆる「ミラクル体験」はたくさんあるんですよね。

 

例えば、こんな具合です。

 

 

(1)ずーっと願い続けていた夢の仕事に就くことができた。(→ここはただの努力ですが)

 

(2)ノートに希望を書いていた通りのパートナーと出会い、結婚できた。

 

(3)ノートに書いていた希望と見事に一致する物件に出会い、住んでる。

 

(4)「働かずお金を得て生きられる」という状態を望んでいたら不思議な縁で実現している。

 

(5)親のために東京に家を用意してあげたいが資金が無かった。

 しかし、親が突然思いがけず高額の遺産を相続することになり、一軒家を買える資金ができた。

 

 

などなど、数え上げるときりがないですが、

 

いかにも願望実現メソッドや思考の現実化メソッドで「思い通りになった!」

 

と声高に謳われるような出来事なら、過去にたくさんあった、という言うことは一応できます。

 

特に、「ノートに書いていた通りのパートナーとの出会い」については、

 

「こんな人がいい」とリストアップした項目が、後から見返すと完全一致でした。

 

親の家については、高額の資金が突如出現した訳ですから、ビックリ案件です。

 

(3)番の頃あたりまでは、「やっぱり願望は実現する!!」と強烈に思い込んでいましたね。

 

アフォメーションもワクワク法則もシンクロの追いかけも潜在意識どうこうも、

 

手当たりしだいにガツガツとやっていました。必死ですね(笑)

 

 

 

でもねえ、一方で、このように実現した願望があると同時に、

 

実現しなかった願望もたくさんあるのですよね。

 

それらを総合して、現在の地平から自分の人生を眺めて見た、ごく私的な感想は、

 

 

・人生、なるべきようになってるなあ

 

・必要必然のタイミングで必要なことが起きるようになってるなあ

 

・てか、必要必然のタイミングで必要なことしか起きてない(笑)

 

・人間万事塞翁馬

 

・人生の最期までにどんな景色が出てくるかは人生まかせ

 

 

という感じです。

 

 

 

もしも、誰かが、願望実現メソッドを売るティーチャーとして、

 

「あなたの願望は必ず実現します!!」という断言をセールストークにしているなら、

 

その人物は、1秒毎に狂いなく未来予言を100%、100万回でも的中させられる、

 

という程度の能力は持っていなければいけないだけではなく、


よしんば、それだけの的中率を持っていようとも、

 

101万回目や未来のどこかの時点で「予言の断言」が外れる可能性は永遠に残りつづけるので、

 

つまり、「願望は実現します!」と断言すること自体が、実際には不可能なのです。

 

シュレディンガーの猫ですね。

 

観測されるまで、どんな現象が出るかは、不可知です。

 

(分かっているつもり、になることなら、いくらでも出来ますけれど)

 

 

 

もしも、100%狂いなく精密に願望を実現させられる世界像を生きていると語るなら、

 

その人物は、尿意を催した瞬間にその場で垂れ流せる世界に生きている必要があるでしょう(笑)

 

しかし私たちの大多数は、社会性を優先して尿意願望をトイレのある場所まで持ち越しますし、

 

(犬や猫ですらスポットが決まるまでくるくると回って調整しています)

 

そもそも、尿意がいつ発生するかは、コントロールすることができません。

 

 

 

ちなみに、この「尿意問題」の時に起きている欲求と行動の仕組みを深堀りしてみると、

 

「源の意識の願望」は常に実現していると言える、ということも見えてくるかと思います。

 

「我慢しよう」という意識を体験したいとき「我慢する」という体験が現実化されています。

 

つまり、「源の意識」の視座から見るならば、毎瞬間狂いなく100%、

 

願望は私たちの自我や体を通じて実現しっぱなしである、と語ることもできるのです。

 

源の意識とは、「体験」や「現象」それ自体を起こし続けている「なにか」です。

 

「真理」「空」「無」「真我」「それ」「神」「原初のパワー」「如来」「源」「意識」

 

などなどと言われる、「万象が生まれる源泉たるなんらかの原理」のことですね。

 

 

※注)「真我」は、観照意識、源、ハイヤーセルフなど、発話者により翻訳差が見られるワード。

 

 

 


で、結局のところ、人生って、

 

「どうなるか分からないからこそ面白い」

 

でしかないと思うんですよね。

 

 

もしも私たち人間が、一秒の狂いもなく未来に対して予知できる意識を持っていたなら、

 

そんなもの、つまらなすぎて生きる価値が半分以下になりますね(笑)

 

だから、あらゆる角度から言って、「願望は実現する」という断言って、

 

すごくナンセンスなものだったなと、今になってみると思います。

 

昔は到底そんなふうに思えず、願望は実現すると信じたかったですが。

 

 

「願望を実現させたい!!」という執着が強烈な間は、

 

上記したような平々凡々とした事実を、自我意識はどうしても受け入れらないんですね。

 

だから「あなたの願望は実現しないかもよ?」と語る文章に対しては(この文章とか・笑)、

 

拒絶感が湧くことかと思います。(私がおおいにそのタイプでした)

 

 

でも、それでもですね、「悟り」の状態が腑に落ちた視座で生きるようになると、

 

「綺麗な努力」をすることができる、整理整頓された精神状態が現れてくる

 

ということは言えると思います。

 

それは、以下のような条件が整って可能になるものと言えるかと思います。

 

 

(1)周囲との比較や他人の評価が気にならなくなる

 

(2)望んだ通りの結果が出るかどうかに対する執着心がなくなる

 

(3)「苦しい努力」ではなく「ストレスフリーの努力」の仕方が分かる

 

(4)人生の流れに身を任せるようになるので焦りや年齢や環境による制限を感じなくなる

 

 

などなどです。

 

で、これら(1)〜(4)の状態って、

 

願望実現メソッドや引き寄せメソッド、スピリチュアルメソッドなどを学んでいても、

 

自動的に自学自習が達成されていくようになっていたりもするんです。

 

 

だから、意外と「願望実現メソッド」とか「ワクワクの法則」とかに

 

夢中になってても、問題ないんですよね(笑)

 

 

でもやがて、これらの「教え」には必ず共通のフレーズがあることに気づいていくと思います。

 

それは、「結果に対する執着をいっさい捨てるのです」というものです。

 

で、教えの本丸って、実はこの部分なんです。

 

 

願望実現系のメソッドって、その奥底の実際としては、

 

「執着を完全に捨てる = 願望実現に関する煩悩の火種を燃やし尽くす」

 

という状態に至らせるために存在している「方便」である、ということができるのです。

 

 

最終目的地は、実は「執着の完全放棄 = 明け渡し」の方なんですね(笑)

 

 

もう少し、細かく見ていきたいと思います。

 

「願望に対する執着の完全放棄 = 煩悩の消滅」を発生させようとしたら、

 

その前提条件として、まず「願望が生じている」という現象が起きている必要があります。

 

だからこそ、「願望を持て」と焚きつける「方便」が存在するんですね。

 

強烈な願望を持たせることで、それを飽和点まで沸騰させて、

 

その挙げ句に霧散させてしまう、バラバラに崩壊させてしまうという、

 

その「崩壊」を最終目的地として、馬の前にニンジンをぶらさげて誘うような「方便」

 

という言い方をしてもいいかもしれません。

 

 

「氷を気体にまで昇華させる」という体験を生じさせようとしたら、

 

まず先に「水を氷にする」という体験が前提として生じている必要があります。

 

 

だからつまり、「願望実現メソッド」は、嘘を語っている、と断罪することができる一方、

 

「必要があってそこにあるし、必要があって体験している」

 

と語ることもまた、できることかと思います。

 

 

 

ちなみにこのあたり、法華経の「三車火宅の譬え」に的確に表現されています。

 

一仏乗(仏の真の教え)にのせるために、先に「喜ばせるようなおもちゃの教え」を見せて、

 

火事になっている家からまず、外までおびき寄せて救いだす、という内容です。

 

 

 

願望実現したら、めちゃめちゃ楽しいし嬉しいですけどね(笑)

 

なにもかも実現したら、私はやっぱり人生退屈で、早く死にたくなりそうです(笑)

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