しばらく実家のある大阪に帰省しておりまして、いろんな楽しい体験をしました。
大阪生まれなのに、40代半ばにして生まれて初めて
・吉本新喜劇を観に行く
・太陽の塔に登る
・USJで遊ぶ
という体験をしました。
その他にも濃ゆ〜い体験があって、備忘録もかねてそのことについて書きたいのですが、
まあ、なにをやっていてもどこにでも真理は宿っているものであるなあと、
改めてこの世の面白さ、醍醐味を感じていました。
生きているだけで、なにをやっていても真理を垣間見られるのですから、
人間実は、「生きている間中、ずっと一瞥体験状態」と云ってもまったく差し支えなかったよね、
と気づいたりもしました(笑)
単に、特定の感覚に陥る状態だけを「一瞥体験」と名付けてカテゴライズしていただけのことで、
ほんと「名付け」と「カテゴライズ=定義」って、功も大ながら、罪作りなものですね(笑)
一般的には「宇宙の真理を一瞬目撃・体感してしまったような恍惚的な体験」を指して、
「一瞥体験」と語られがちだと思うのですが、
よくよく考えたら、私たちって毎瞬間、毎瞬間、宇宙の真理を目撃しっぱなしなのにね(笑)
トイレするも宇宙の真理の目撃だし、
たった今そこに落ちているティッシュペーパーも領収書も宇宙の真理の目撃だし(笑)
わざわざ「一瞥体験」とやらと、ティッシュゴミを切り分けてカテゴライズする必要がなかった。
この世の万象に、真理の宿っていないものなど存在しないのだから。
まったく、「言葉のトリック、自我のトリック、定義のトリック、概念のトリック」
というものに、人間はいつでも騙され、やられっぱなしだなと思います。
だから、ティッシュと真理を切り分けられないのと同様に、
「一瞥体験」と「悟り」を切り分けて「一瞥体験は悟りではない」と語る必要すらなかった。
考えてみると、ごく単純な「言葉のトリック、ひっかけ問題」でしかなかったものに、
いつでも何回でも惑わされ、混乱してしまう構造を、人間はもっていますね。
本やらで「きっとあれが一瞥体験と云われるものだったと思う」なんて記述を、
読んでしまったので、その情報が頭に刷り込まれてただけなんですね。
でも、この「混乱し、惑わされ、トリックにひっかかる」という構造を人間が持っていないと、
人生を楽しむ、思う存分遊ぶということもできないわけですけれども。
そんな訳で、まだもう少し「悟りの読み解き」をやりたい思考があるようなので、
「悟り解釈」を飽きるまでやりきって終わりにしたいと思います。
私のブログは、どこまでも自分自身に納得感が現れてくるまでの記録簿です。
どこかの誰かのお役に立とうとか、助けようサポートしよう救いになろうという気はありません。
「救うなかれ、手だし無用」
が、私の信条です。
だって、苦しんでいる最中の人の「人生の個別性」ってものすごく良いもの。
「苦」の中にいる人のほうが、明らかに面白いこと、妙趣のあることを書き、発すると思います。
「生き方論」「幸福論」「悟り論」「成功論」は、とかく個性がなくてつまらんのです(笑)
誰が語っていても大筋でいっしょですやん(笑)
こりゃつまらんわ(笑)
(もちろん、自分もたいそうつまらんことを書いております・笑)
各々の人生の個別性こそが、尊く妙なるものと思います。