真理探求の道、苦からの解放、解脱への道、幸せへ向かう道、などなど

 

「それに至る」状態を求めて生きる道は、人それぞれに本当に個性的だと思います。

 

だから「この方法が最高」「唯一無二の正解」といった確固とした方法論があるわけではなく、

 

人それぞれや、そのときどきの状態によって必要になってくる言葉も方法論も、

 

人の数だけ異なってくる、ということが言えるかと思います。

 

そして、すべての道のりが、なにひとつ間違いがない、ということも言えるかと思います。

 

 

なので、私にとって鉄板だったと感じる言葉や、「やってよかった」と感じる方法

 

といったものが、他の人にとって必ずしも有効であるとは云えないのですが、

 

なにはともあれ、ふと思ったので、書いておきたいと思います。

 

 

 

まず、探求の終着付近で「鉄板だな〜」と感じる言葉と、

 

まだまだ「苦しい」という感情や思考が強いときに必要だった言葉や方法は異なっていました。

 

それはなぜかというと、ここでも「応病与薬」「対機説法」の考え方が有効だと思うのですが、

 

自分がしんどくてたまらない時というのは、「徹底的に自分を甘やかすこと」が、

 

必要であり、有効な薬であり、無いと困る松葉杖、だったりするからです。

 

松葉杖が必要な時期に、「努力、根性、学習!!」と叫びながら、

 

松葉杖をぶん投げてダッシュして筋トレしだすというのは、

 

ケガが悪化して一生動けない選手になるかもしれないのに、

 

まったく理性的でもなんでもないアホな行為である、と言えるんじゃないでしょうか。

 

そんな訳で、気分が鬱っぽかったり、体がギシギシして動かなかったりと、

 

自分自身の肉体と精神が悲鳴をあげていることが分かっているにも関わらず、

 

「もっと頑張れ」「もっとちゃんとしなきゃ」「耐えろ!」と自分に命令するのは、

 

「応病与薬」がまったくできていない、ヤブ医者行為を自分に対して行っているようなもの

 

であると言えると、私は思っています。

 

 

こういう状態の時期は、「甘えて現実から逃避しているだけだ」なんて言葉をよく見たり、

 

そのような言葉が気になってしまうかもしれません。(私は気になりました)

 

でもそれは、ケガをしている患者の松葉杖を取り上げるようなヤブ医者行為なのだと考えると、

 

必ずしも理性的な態度や意見とは言えないのだ、ということも見えてくるのではないでしょうか。

 

 

 

 

  探求の終わりあたりで鉄板だと感じた言葉や概念たち

 

 

探求の終わり付近では、だんだん

 

「なーんだ、最初からなんにもしなくて良かったんだ」

 

といったことが見え始めてきました。

 

しかし、「苦」の最中にあるときというのは、とにかく体も心も、

 

得体も知れずしんどい、動きが悪い、なんか気持ち悪い、という感じなので、

 

「なんにもしない」という状態に留まっていることなんてできませんでした。

 

だから、探求の終わり付近と、苦の渦中では必要な言葉や概念(お薬)が、

 

異なってくることを踏まえておくと、

 

必要に応じて必要な薬を取り出せて良いのではないか、とも私は考えます。

 

 

 

まず先に、探求の終わり付近で心に響いた言葉や方法、考え方を書いてみます。

 

 

 

・生きてるだけでまるもうけ

 

結局、生きてるだけで全ての状態は、そのまままるごと「OK」だったと気づいてゆく。

 

怒ってもOK、悲しんでもOK、批判してもOK、休んでもOK、嫉妬してもOK。

 

儲けてもOK、貧乏でもOK、成功してもOK、失敗してもOK、究極なにをしててもOK。

 

生きてさえいれば自分に必要なことはすべて起きる、ただ体験すればいいだけだと知る。

 

 

 

・これでいいのだ

 

自分の「外」の世界にどんな働きかけを行ったとしても、

 

すべての行為が「これでいいのだ」になっていることを知っていく。

 

他人に迷惑をかけたと後悔しても、その迷惑こそが他者を輝かせていたと知る。

 

失敗をしても、その失敗こそが成功のための布石だったと知る。

 

あらゆるすべてが「これでいいのだ」に通じていたと理解してゆく。

 

 

 

・人間万事塞翁が馬

 

「否」「✗」「あってはならない」などと感じていた最悪の出来事も、

 

その先の展開をずっと眺めていると、最良の状態へとつながる道となっている。

 

「良」「悪」をくり返して、万事は流れてゆく。

 

ただ「流れ」を見守っておればよい。

 

悪いは良いに、必ず転換されてゆくと知れば、「悪い」のただ中でもくつろいでいられる。

 

 

 

・無為自然

 

自分とは「筒」のようなものであり、人生とはその筒を流れてゆく「川」であると知る。
 
自分は生まれてこのかた、常に動かず、いつでも「ここ」にいたと知る。
 
その動かない自分の中を、人生という川がただ流れていくのみだと知る。

 

 

 

・中道

 

上記にあげたすべての概念を統括している中心点のようなもの。
 
「善」「悪」のすべての判断が捨て去られたとき、憎くてたまらなかった者、
 
自分を損壊させた者こそが、「如来の化身たる大恩人」であったと知る。
 
けれど、この「中道」の概念は「凶悪こそが最大の慈悲」という理解が落ちる地帯であり、
 
途方もない悪意にさらされた体験を持つ者は、性急にこの概念に至ろうとすると、
 
狂気を発動させる危険がある。
 
「許せないものは許せなままで良い」
 
「腹の立つ相手には怒りをぶつけて良い」
 
「怒りをぶつけることもまた必要があるから起きる」
 
ということを知ることも、とても重要。
 
「許す必要などない」と知ることもまた、中道の概念の中に含まれることを知れば、
 
「許せない自分」を許すことができる、という安寧の地帯が見えてくる。
 
 
 

 

  苦しみの渦中で鉄板だと感じた言葉や概念たち

 
 
さて、次に「苦」がまだまだ抜けない頃に有効だった方法や言葉を記します。
 
 

・「やりたくないこと」をひとつづつ徹底的にやめていく

 

 

例えば、こんなこと。

 

・飲み会に誘われたが、なんとなく行きたくないので断る。

 

・今日は疲れて寝ていたいから、家族の用事もやらない。

 

・なんとなくメールの返信をしたくないからしない。

 

・なんとなく合わないと感じる人との関係を断っていく。

 

・寝たいときは寝る、を徹底する。

 

 

これは「小さな嫌なこと」をひとつづつやめていくことから始まり、

 

やがて「大きな嫌なこと」を手放すという状態に至ることが多いのではないでしょうか。

 

(私の場合はそうでした)

 

例えば「離婚」「離職」「親との縁を切る」なんて具合に、

 

やがて大きな「やめる」が到来するようになっているという。

 

 

「小さな嫌」について自分の心にひとつひとつ丁寧に尋ねながら捨てていくという行為は、

 

「何が自分にとっての苦の根本要因となっているのか」ということを、

 

細かく分析し、解明してゆくことに非常に役立ちます。

 

 

友人、家族、仕事関係などに一切遠慮せず、徹底的に「自分にとっての嫌なこと」

 

をやめていく、というような道のりになることが多いかと思います。

 

 

「自分にとっての苦」は、人それぞれおおいに異なる個別性のあるものだと思います。

 

私の場合は、

 

・寝たいときに好きなだけ眠れない生活がとにかく嫌

 

・だからこそ、時間に束縛される生活(勤め人など)が徹底的に嫌

 

・時間に束縛される仕事を徹底的にやめていった

 

ということが、苦の根本に大きく横たわっていました。

 

「自由きままに生きたい」という人生を歩む目的を持つ肉体精神の主は、

 

仕事をしないといけないのに眠くて眠くてたまらない、

 

といった症状などが、よく現れがちかもしれません。

 

「体が動かない」「眠い」は重要なサインなので、無視するのは良くないんですよね。

 

 

 

 

・「やりたくないこと」「気分がのらないこと」「今日できないこと」はやる必要のないこと

 

 

この言葉には、探求中、おおいに救われましたし、おおいに効果を実感しました。

 

「どうしても体が動かない」「どうしても気分がのらない」「なぜかやる気にならない」

 

といった事案には、ちゃんとそうなる要因や因果が背後に隠されています。

 

これもまた「人間万事塞翁が馬」ですね。

 

「できなかった自分」を責める必要はまったくなかったのだと知りました。

 

自分が「できない」という状態であったことが、めぐりめぐって誰かを助けることになったり、

 

「あのときできなかったおかげで助かった」

 

「あのときやらなかったから別案件のタイミングが合った」

 

などなど「悪」と思った状況が「良」に反転していくという現象は多々起きます。

 

 

 

 

 

さて、これらの文章を読んで、どのように感じるでしょうか。

 

上記の言葉を見た瞬間に「それは違う!」という反応が起きる方だっていると思います。

 

そういう方は、私とは「歩みのタイプ」が違う方ではないかと思います。

 

あるいは「現在地」においては、私の言葉が「応病与薬」として機能しない、

 

という事が言えるかと思います。

 

人それぞれ現在地は異なっており、

 

その現在地において「有効な薬の成分」は異なっているのです。

 

だから、それぞれの現在地に合わせた処方箋がこの世には無数に存在しています。

 

スピリチュアルも願望実現メソッドも、それが必要な地帯においては、

 

「正しい処方箋」となっている、と言うことができます。

 

 

たとえばフリーランス向きではなく、勤め人であることが人生の喜びとなるタイプは、

 

「眠るために仕事をやめる」といった態度には嫌悪感を感じるかもしれません。

 

もし嫌悪感を感じるならば、その嫌悪感こそ、注意深く大事にする必要があるんですよね。

 

 

 

そして、上記に記した言葉たちのバックグラウンドには、常に

 

「中道」の概念が重要な要素として機能しているんですよね。

 

良い、悪い、のジャッジはいっさい必要がない、ということを徹底的に理解すると、

 

あらゆる状態の自分を許すことができるようになってゆくかと思います。

 

 

 

ただし、くり返し書いているように「中道」の概念は、

 

徹底的も徹底的に「善悪」の価値意識を崩壊させてゆくゾーンなので、

 

「正義」「功徳」「愛情」「博愛」「利他」「優しさ」「思いやり」「道徳」「仁」

 

などなどの一見すると「良」と思われる価値意識を強く握りしめていると、

 

理解が中途半端にしか到来しないものでもあります。

 

徹底的な破壊

 

が生じるゾーンですね、中道は。

 

無限なる善悪の矛盾の階梯が、ガラガラと崩壊を迎えるゾーンです。

 

 

 

私は、なんか、カッコイイから個人的に好きです、中道(笑)

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