「新緑めぐる」という名前は真理探求に関することを気ままにブログなどに書く、

 

という目的で作った名前です。

 

しかし私はもともとペンネームを使うような仕事をしていたので、

 

この名前の他に、本名とは別にもう少しパブリックな名前を持っています。

 

(といっても、たいして有名ってほどでもないんですけどね、仕事に使っていた名前です)

 

 

 

で、元のペンネームでやっていた仕事を、真我の自覚が起きた頃あたり(2020年夏)、

 

つまり「悟り」が落ちて深まろうとするあたりから徹底的に辞めていきました。

 

で、「パブリックな名前」では、悟りやスピリチュアル系のワード等は一切発していません。

 

 

 

そして仕事を辞めていったと同時に、以前の友人知人や仕事仲間たちの関係も離れました。

 

(揉めたとかではなく、コロナの影響も加わり自然とそうなっていった)

 

そういう間遠になった友人知人たちに「実は私、悟りまして‥‥‥」なんて、

 

わざわざ宣言したりもしていません(笑)

 

 

 

そんな訳で、私は自分が「悟りを開いた」ことを、周囲には秘密にしている訳です。

 

ふと、なんで秘密にしてるのかなあ、と考えてみたんですね。

 

いくつか理由は思い浮かびますが、根っこにあるものを探ってみると、

 

こんな感情かもしれないなと思いました。

 

「悟りを開いた、とか云っちゃうの、なんか、恥ずかしくない?」

 

と、そんなことをうっすら思っているような気がします。

 

 

「いや、なんでやねん」と我ながらちょっと突っ込みたくなる心理ですね(笑)

 

だって、「悟りを開く」って、釈迦のような歴史上稀に見る凄い賢者にしかできない、

 

なんか凄いこと、今生で辿り着けないような聖なる境地だと思っていたし、

 

一般的にもそういうイメージなんだから、「凄いことをやってのけた!」と、

 

自慢しても良さそうな気がします(笑)

 

 

でも、実際に「悟り」が落ちると、

 

それは稀に見る凄い賢者だから起こせる現象なんかではない、

 

ということが、自分自身によって見破られてしまいますもんね。

 

そして、「未だ悟っていない人」に見えていた、周囲の人たち、

 

憎いあいつも、阿保!嫌い!と思った人も、偉そうにしやがってな人も、

 

見下し見下された人も、下品な詐欺師なんて思った人も、あの人もこの人もみーんな、

 

自分という赤子をあやしてくれていた「仏=如来=一切智の化身」

 

であったことがバレてしまいますもんね(笑)

 

面倒見たってると思っていた人たちに、

 

実は、面倒見られてたのは自分の方だったと気づいてしまう(笑)

 

やっぱり「悟り」って、「あ〜、恥ずかしかった〜!!」となることだと思います(笑)

 

 

 

で、ふと思ったのは、『天才バカボン』を描いた赤塚不二夫さんは、

 

「これでいいのだ」の決め台詞を生み出せるだけあって、悟り人だったと思いますが、

 

(バカボン = 婆伽梵 = 仏陀、ですし)

 

やっぱり、ダイレクトに「悟り」を語ることに対して、

 

「気恥ずかしい」とか「照れくさい」という心理があったんじゃないかと想像します。

 

 

 

美術、音楽、文学、漫画、お笑い、舞踏、演劇、などなどの各種アートやエンタメは、

 

「悟りをいかに語るか」ではなく、「悟りをいかに隠すか」によって、

 

「真理」の一側面を照らしだそうとしている、そういう営みだなと思います。

 

 

 

「悟り」とは、「真理それ自体ではあれないが、真理を指さすことができる」

 

というものであろうと私は思っています。

 

そして、「悟りをいかに語るか」という営みがなければ、

 

ソレを知ることはやはりできなかったので、その営みはとても大事なものです。

 

一方で、「悟りをいかに隠すか」という営みがなければ、

 

「真理それ自体」は魅了性や神秘性を湛えることができず、

 

即ち、探求者の探究心を駆り立てるものとはなりえず、また、

 

この「色界」「現象世界」は、色それ自体、彩りというものを持つことができず、

 

あらゆる魅了性や好奇心は発現されなかっただろう、とそのように思っています。

 

 

 

どちらもとても大切ながら、元来のペンネームの私は、

 

「悟りをいかに隠すか」の側を生きたい、そのような思いを強く持っています。

 

そういう思いがあるので、私はたぶん「新緑めぐる」という架空の人物を生み出して、

 

その世界で「隠さずに悟りを語りたい」という「もう一方の欲」を満たしているのだろうなあ。

 

別の人格を生み出した、とも云えるかと思います。

 

 

 

「隠さずに悟りを語る」ができるメンタリティって、ある意味で、

 

「自分の恥ずかしい」を晒してもよい、という鋼の心を持てている状態でもあると思うので、

 

それは或いは、思春期的な「恥を隠したがる心」を脱することができている、

 

ということでもあるんじゃないかと思っています。

 

そして、ここが釈迦の凄さの所以ではないか、とも感じています。

 

「対機説法」の概念を生み出してこの「恥」への打開策とした、と見ることもできるなと。

 

梵天勧請は恥ずかしがってモジモジする釈迦に梵天が「やっちゃえよ!」と云った話、

 

と考えることもできそう(笑)

 

ほんと、「物語」とはメタファーです。

 

 

 

だって、「悟り」が落ちた上で「悟り」を語るということは、

 

自分が「間違ったことを語ることがある」「間違いを指摘される」ことを請け負う、

 

ということでもあると思うのです。

 

なぜなら「絶対の真実など存在しない」と既に知っているわけですから、

 

ある観点から見た「真実」は、異なる観点からは必ず「間違いを指摘できる」

 

という構造を、この世界は否応なく持っているわけですからね。

 

「真理について間違ったことを語らない」ということは、土台無理なのです。

 

だからこそ、「真理」を完全に表そうとすれば「沈黙」をもってしか成せないわけですから。

 

 

 

さて、タイトルと少々話題がそれてしまいました(笑)

 

ちなみに、私は夫には「悟った」ということは話していません。

 

しかし夫は夫で、例えば中田敦彦さんのYou Tubeや「お金持ちになる方法」を

 

探索するのが好きなようで、そんな方向性からも「悟り」に近しいことを

 

云うようになっていたりします。

 

 

 

そして私の両親は、もともとかなり熱心な仏教信徒なのですが、

 

(けっこう悪名も高い宗教団体の信者です)

 

母にはラインで一度、「私、悟りが分かったから」と送ったことがあります。

 

すると「え!どういうこと!?今度詳しく聞かせて!!」という返事があったのですが、

 

その後、母はその件についてすっかり忘れているようで、なんにも聞いてきません(笑)

 

熱心な仏教徒だったらもっと「悟り」に食いついてこいよ! と思うんですけど(笑)

 

しかし、仏教徒だけあって、家族のさまざまな死を体験したこともあり、

 

死生観については「悟り」の境地を得つつあるような発言があります。

 

 

 

唯一、私がはっきりと「悟った」ということを語っていたのが、

 

四十年来のつきあいの幼馴染だったのですが、

 

この幼馴染とは今年に入って家族の突然死という事件がきっかけとなって喧嘩し、

 

絶縁する、という事態になりました(笑)

 

 

 

というわけで、今のところ、私が「悟った」と周囲に公表すると、

 

相手はその事実をすっかり忘れてしまうか、目の前から姿を消してしまうようです(笑)

 

まだ、たったの2例しかないんですけど(笑)

 

 

 

そんなわけで(どんなわけで?)、これからも「悟ったこと」は隠して、

 

こっそりと秘密の趣味として「悟りを語る」をやるだろうと思います。

 

2023年中までには、それにも飽きるだろうなと自分では予想しているのですけれど(笑)

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