「悟り」に至るため、目指すための方法を語る記述はさまざまにあります。

 

(実際には、悟りは「到来する」と書くほうが精密な表現だと思いますが)

 

 

その中にしばしば、

 

・〜〜の方法論は良いが、〜〜は良くない(お勧めしない)

 

・〜〜の方法論をとると、おかしな方向に行きますよ

 

・〜〜の方法論が早いです(自分の経験上は)、だからお勧めしています

 

といったような「説」「言い方」を見かけることがあります。

 

 

 

本当にそうなのでしょうか?

 

お勧めできない方法論や、危険な方法論というものがあるのでしょうか?

 

あるいは、「これをやれば早い」という方法論が存在するのでしょうか?

 

 

 

私が考える「悟り」を得るための究極の方法論は、

 

生きること

 

です。

 

もう少し詳しく書くと、「自分の人生を生きること」ですね。

 

「自分の人生」の中に「悟り」の状態が開花するために必要なものが、

 

すべてパッケージングされています。

 

逆説的な言い方をするなら、

 

「最初から、すべてパッケージングされていて、すべてが余すことなく必要必然だった」

 

と気づく状態が「悟り」ですから。

 

 

 

で、その必要必然のパッケージングの中には、以下のような項目が入っていることもあります。

 

 

(1)誰かにマインドコントロールされて怪しい宗教に入ってしまう。

 

(2)不必要に高額なセッションやリトリートに参加しまくって貯金がなくなる。

 

(3)瞑想が要因で魔境にはまり、異次元存在と交流が始まる。

 

(4)家族を捨てて不幸にしても、外国の山奥などに修行に出ていってしまう。

 

(5)真理探求のために「数百万、数千万円費やしました!」という状態になる。

 

(6)教祖的にふるまうようになり、多数の人を導こうとする人になる。

 

(7)やたらに高額なセッションやワークショップなどを開催する人になる。

 

(8)誰かを洗脳して破産させるほどの献金をさせるようになる。自分が破産する。

 

(9)宇宙人や高次の霊と繋がりチャネリング情報のスピーカーになる。

 

(10)「除霊・浄霊します」「霊視します」などの商売をはじめるようになる。

 

(11)誰かを導いたり救ったり教え諭したりして感謝されて気持ちよくなる。

 

(12)すべては愛だ〜〜〜!!と世界の中心で叫びまくる。

 

(13)他の教説や観点を否定&批判するようになる。

 

(14)成功法則に夢中になって稼ぎまくる。

 

 

 

などなどなど‥‥‥(1)〜(10)あたりは、

 

「その道に行っちゃダメだ」と物申す人の数も増えそうな項目かもしれません。

 

でも、こういう一見「そっち行っちゃダメだろ」と云われがちなこと、

 

「間違ってる」と云われがちなことも、必要必然があって起きているのであって、

 

「悟り」が花開くためのヒントや必要な要素、養分が必ず埋まっています。

 

 

 

極論を書きますが、

 

かつて宗教団体の化学物質テロ事件が世間を震撼とさせたことがありましたが、

 

そのような宗教団体に属し、人を殺める助力となるような、

 

「法的、道徳的に過ちとされること」を行った人ですらも、

 

その「過ちとされる経験」から学んだことが糧となって、

 

「悟り」が開花するための土壌を形成する、ということも大いにあります。

 

 

 

(1)〜(10)あたりの、

 

ともすれば「転落」にも見えるかもしれない道には行きたくないと思う人も多いかもしれませんが、

 

このような「道」が展開する人生であるならば、事は否応なしに展開し避けようもなく起きます。

 

 

 

 

そして「〜をやれば早い」「〜をすると遠回りになる」という考えは、

 

やがて霧散してしまうことになるでしょう。

 

なぜなら、あるとき約束の刻限が到来して「悟り」の花が開花したとき、

 

その人は自分の背後をふり返り、歩んできた「自分の人生の道」が、

 

ぐにゃぐにゃと紆余曲折しながらも、

 

「ただ一本の道」という軌跡を描いていることを見出すことになるからです。

 

そしてすべてが、早くもなく遅くもない必然のタイミングで起きていたことを見出します。

 

 

 

 

 
ただし「悟り」という概念や体験は、「生きている」という状態の中、
 
つまり「色界」「現象世界」の中でしか認識することはできません。
 
睡眠中の夢を見ていない意識の状態の中にも「悟り」は在るということは云えますが、
 
その睡眠中の状態を認識しているのは「生きている」「起きている」とされる状態です。
 
 
 
だから、「生きること」だけは、唯一絶対に欠かすことのできない条件なんですね。
 
「死んでも悟りは開けるかもしれないじゃないか」と思うかもしれませんが、
 
それは「自分の死」が今ここに無い以上、観測することができないので、
 
仮説以上のことを語ることができないのです。
 
もっと突っ込んでいうと、「悟り」それ自体も仮説以上のものにはなり得ないのですが、
 
しかし「体感的理解」を語ることはできます。
 
そして「悟り」について語られていることはすべて体感的理解に基づく言説であり、
 
それを「真実である」と証明、実証する方法は「この世界=色界」には存在しません。
 
 
 
「生きている」は今ここで観測することができるので、
 
「悟り」も、その「生きている=色界」の内部において観測されます。
 
 
 
「生きる」をやっていると、やがて「人生という道」の途上に、
 
「悟り」が観測できるポイントが現れる、という言い方もできるでしょうか。
 
「悟り」は登山道の途中にある展望ポイントのようなものである、
 
という言い方もできるかもしれません。
 
人生というものの見晴らしが一気に視界良好となって、
 
自分が登ってきた道のりがよく見渡せるようになる地帯なんですね。
 
「本当になにもかも、すべてこれでよかったんだ」という「落着」が現れる地帯です。
 
 
 
そして「悟り」が観測できるポイントを過ぎても尚、
 
「人生という道」「生きるという道」はつづいています。
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