「神秘体験は悟りではない」なんていう言い方があります。

 

「悟り」と超常現象は、一見相容れないものという感じもしますが、どうなのでしょうか?

 

個人的な自分の体験をふりかえってみたいと思います。

 

私は、探究の道のりの過程で、けっこうダイナミックに超常現象を体験したタイプです。

 

いわゆる「霊能」と言われるだろう能力も発現しました。

 

この種の体験は「悟り」とどういう関係があったのかを、見ていきたいと思います。

 

 

 

 

私の「探究」の道を時系列でざっとなぞると、以下のような感じです。

 

 

2011年の東北大震災の衝撃によって精神を揺さぶられ、このあたりから人生の「苦」を本格的に感じるようになっていきました。

 

 

 

2012年あたりから、救いを求めるように、まずはスピリチュアル系の本を読み始めました。

 

最初は、「オーラの泉」などのテレビで有名になった、いわゆる「スピリチュアリスト」の本あたりから。

 

「死後」「前世」「魂」「高次存在」「守護霊」などの世界観を信じていた時代です。

 

同時に心理学や脳科学、哲学系の本、成功法則などなども読み漁っていましたが、守護霊、龍神、宇宙人、などのファンタジックなスピリチュアル世界のほうに惹かれていましたね。

 

もともとファンタジー文学やSFが好きなタイプだったので、親和性が高く、単純に楽しかったのでしょう。

 

 

 

2015年に「見えないはずのことを流れるように言う」というチャネラー(幼なじみの友人でした)と出会ったことが契機となったのか、この年代から、いわゆる「超常的な現象」の体験がバンバン起きるようになっていきました。

 

こういう特殊体験が後押しとなって、いっそう「スターシード」「ライトワーカー」「地球のアセンション」といった世界観に親和性を感じるようになっていきましたね。

 

ただ一方で、自分と同様の世界観に浸っている人たちから、一種の「臭み」のようなものを感じとり、怪しさも感じていました。

 

「私は特別」「選ばれた人間たち」「他より進化している存在」と思いたがっている自我の存在を感じていて、「なんか素敵に見えないんだよな〜」という違和感を感じていました。

 

ふりかえってみれば、自分の中に渦巻いている「不健康な承認欲」が、他者という鏡を通して投影されていただけだったんですよね。

 

いわゆる霊的な能力(死者の声を聞いたり、チャネリングできたり、予知夢は日常になり、物質の形態变化まで起きる)が発現している自分のことを「私は他より凄いんだ」と思いたがる自我が、おおいにあったと思います。

 

一方で、「こんなふうに自分に特別意識を感じるのは、どこかおかしい」という疑いがずっと隣にある、そんな状態でした。

 

ちなみに、この時代は、超常現象を起こしている主は「守護霊」とか「ハイヤーセルフ」とか「なんらかの高次意識」だろうと想定していて、「自分ではない何らかの高次の意識がある」かのように感じていたと思います。

 

自分以外の意識が「自分より高い場所」にあることを想像してしまっているわけですが、この意識状態は、「真我」を本当の意味で自覚するためには障壁になっていたと思います。

 

なぜなら「真我」はどこか高い別の場所にあるのではなく、「自分、即ち真我」というくらい、距離の存在しない近さにあるものだからです。

 

このことから、意識を上方にもっていくタイプの瞑想では「真我」を見いだしにくいのではないかと思いますね。

 

スピリチュアル界隈では、「上」に意識をもっていく瞑想法が多かったように思っていますが、その瞑想それ自体が、真我に気づくことを妨げていたトラップでもあったんだな、と今になってみると思います。

 

と、同時に、真我実現に至るための必要なステップにもなっているわけですが。

 

トラップであると同時に、必要なステップでもある、という聖なる矛盾。

 

トラップにハマるからこそ、「トラップのある世界とはどういうものか」が解明されるわけですから、必要な道のりなんですね。

 

 

 

 

2018年あたりから、次第に他者を通じて投影されているのは、自分の中に解消されていない「心の傷」「不要な固定概念」があるためだと気づいていきました。

 

「思考観察」を行うことで、自我の皮を一枚ずつ剥がし落としていくような時期を過ごしていました。

 

それまで傾倒していた「ファンタジックなスピリチュアル」に限界を感じ、本格的に「悟りの探究」に歩みだした時期です。

 

調べる言葉が「アセンション」などのスピリチュアルな流行カタカナワードから、「悟り」「真理」「仏教」などの硬派なものへと変わっていきました。

 

このあたりになると、お経の翻訳書や原始仏教の本などを読み漁るようになっていきました。

 

イスラームの経典を読んでみたりもしていました。

 

しかし、「スピリチュアルに限界を感じた」とはいっても、スピリチュアルと悟り探究は、境界線曖昧に繋がっているものだと思っています。

 

「同じものの表現の異なり」と言いますか。

 

仏教のお経も禅話も、あるいは聖書やイスラームのコーランなんかも、多分に物語的なんですよね。

 

というか、むしろ経典や神話こそが「物語の原型」です。

 

物語とはつまりメタファーだと私は思っています。

 

各種の経典はすべて、ひとりの人間の人生の「とある状態」をメタファー化したものである、というのが、私の現時点での考えです。

 

ですから、「あらゆる教え」はすべて、探究の階梯のどこかの段階で役立つようになっていると思います。

 

「自分のメタファー」を、各種の経典や神話から、都度、見出し、参考にすることができるようになっています。

 

 

 

 

2020年の4月頃に「真我の自覚=観照意識の自覚」が起きました。

 

ちなみに、超常現象体験が割りと派手に起きていたのは、この2020年頃まででした。

 

いわゆる「精神が地に足のついた状態」に戻ってきたので、派手な超常現象を意識が求めなくなったが故かな、と思っています。

 

しかし、これ以後も、さほど派手ではない超常現象は、ずっと続いていますね。

 

超常現象が、「珍しくて凄いもの」として存在するのではなく、「この世界での当たり前の風景や、人生を歩むツールのひとつ、として人生の内側に組み込まれた」という感じなのかもしれません。

 

私自身も、超常現象が起きたときに「ほお、こう来たか、おもしろいな」と思うことはあっても、「うそー!すげー!なにこれ〜!!」と以前のように騒ぐことはなくなっていきました。

 

 

 

 

2020〜2021年にかけて、「悟り」の感覚にふと気づき、その感覚が定着していくように感じる時期を過ごしていました。

 

この時期は、仕事もほとんど辞めてしまって、「世俗」「外界」との接触がほぼない中で、徹底して自己対話をするような時期を過ごしていました。

 

「悟り」が落ちた後に、「空性」の感覚にとらわれるためか、いささか虚脱状態や虚無的な感覚に覆われる時を過ごす人がいる、という記述を読んだことがありますが、私もその状態だったのではないかなと思っています。

 

「すべては自動で起きている」という理解が落ちたことで、「この世界=現象世界」に対して積極的に働きかけようという意志が弱くなっていたと思います。

 

釈迦には、菩提樹の下で悟りを開いた後に「梵天勧請」が起きるまで、再び娑婆世界を渡り歩こうとしなかった(二度と現世に生まれようとしなかった)という説話がありますが、この説話は、「悟り後にやや虚脱状態になる」というのと近しい状態を表現している、その状態のメタファーになっているのではないか、と感じています。

 

 

 

 

2022年になると、「悟り後の虚脱状態」から脱却させるためでしょうか、人生最大の衝撃事件といってよい出来事が、私の身に起きました。

 

具体的には、身内がかなり衝撃的な亡くなり方をしたのです。

 

警察に遺体検分に行くような亡くなり方でした。

 

しかし、以前の自分だったら十数年は翻弄されただろう「世間一般の価値観で見れば『苦しみ』とされる体験」も、「真我実現」が起きている意識で体験するので、「苦」の体験とはならず、思考も感情もサラサラと流れていく状態を体験することとなりました。

 

とはいえ、「思考と感情は自動的に発生し、消えていく」のですから、悲しみや驚きや怒りはどんどん湧いてきて、おおいに怒り、おおいに泣き、おおいに慌て、ということはやっていました。

 

しかし、これらの感情や思考や現実の行動や状態に、自分自身が巻き込まれていない状態なのですよね。

 

思えば、「こういう意識状態になれている自分」を確認し、体験するという意味もあって、衝撃事件は起きるべくして起きていたんだなと思います。

 

事件から3ヶ月ほど経った今は、すっかり悲しみも苦悩も私のものではなくなっています。

 

こういう状態は、2012年以前の自分なら、まず考えられなかったことですね。

 

2012年以前の自分なら「生涯消えない苦悩を抱えてしまった」なんて思って惑乱していただろうと思います。

 

2012年の自分からは想像もできなかった「意識の状態」が、自分に到来したということかと思います。

 

ちなみに、この衝撃事件と向き合っている最中も、一般的には「超常現象」と言われるだろうことをさまざまに体験しました。

 

例えば、死者の声をはっきり聞いたり、といったこともありました。

 

しかし、以前との違いは、「死者の声も自分自身が起こしていることである」と気づいていて、「死者が自分がいる以外の場所に確かに存在している」という感覚を持っていないことですね。

 

「死」「死者」というものも本当は存在しない。

 

衝撃事件の体験は、このことを私に、「人生という実践」を通じて深く理解させ、体得させる、という出来事でもありました。

 

真実の実践は、その者の「人生それ自体」の中にしかないのですよね。

 

そういうことを、はっきりと体験するための出来事でもあったと思います。

 

 

 

さて、「悟り」と超常現象の関係は(2)の考察へと続きます。

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