私が好きな仏教用語に「応病与薬」「対機説法」という言葉があります。

 

意味はどちらも、人それぞれに人生の状態や状況、趣味嗜好や性格や精神性の傾向も違うのだから、

 

それぞれの個性に応じて、必要な教えや語り方や説法が異なってきますよ、というほどの意味です。

 

あらゆる「方便」や「説」の矛盾のはるかなる階梯を一挙に解決する

 

必殺技のような言葉だと思っています。

 

この世は矛盾まみれですが、その矛盾こそが必要なんですね。

 

 

 

で、話は変わるのですが、

 

私は、美術大学の学生さんに美術の講義をやらせてもらうことがあるんですね。

 
そういった場で、私はよく、こんなことを話しているんです。
 
 
・創造欲求の根源は、この世界について知りたいという真理への希求心ではないか
 
・「我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか」  by ポール・ゴーギャン
 
・芸術家とは真理を求めて歩む人々のことである
 
・この宇宙とは、いったいどうなっているのか?
 
 
と、まあ、こんな感じでしょうか。
 
な〜んか、いかにもカッコイイ感じが、しないでもないですね(笑)
 
 
上記のようなことは、
 
私自身がクリエイターとして生きてゆきたいと思っていた20代や30代の頃に、
 
心に響き、実際にそれを求めて生きていた、という人生のテーマでもあります。
 
 
 
ところがですね、さんざん「真理」を求めてウロウロして迷路を迷いまくったあげく、
 
「悟りが落ちる」という状態が到来して、かつて希求し渇望した「真理」への理解が到来し、
 
真理探求という意味では「探求の終わり」を迎えた現在の意識状態から、
 
これらの言葉を改めて見てみると、どのように感じるかというと‥‥‥
 
こんな具合になります。
 
(ちなみに、真理探求は終わったけれど、「生きる」は続いているし、
 
新事実や新発見の到来も、まだ見ぬ智慧の到来も、人生にはまだまだ起きると考えています)
 
 
 
・創造欲求の根源は、この世界について知りたいという真理への希求心ではないか
 
→ つーか、この世界創造したの自分やし!!(自作自演なんですけど・笑)
 いや〜、自分が創造そのものだし〜。
 現在の状態がそのままで、すなわち即真理だしな〜。
 
 
・「我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか」  by ポール・ゴーギャン
 
→ いや、最初からずっとここにおるんですけど!! 笑笑笑
  最初から最後までどこも行ってないし!! 笑笑笑
  何者もくそも見たまんまそのまんまやっちゅーねん!! 笑笑笑
 この言葉、全体的にボケのクオリティがシュール&ハイレベルすぎるんですけど 笑笑笑
 
 
・芸術家とは真理を求めて歩む人々のことである
 
→ いや、芸術家っていうか、すべての人がそのままで即真理なんだしねえ。。。笑
 求めて歩む必要ぜんぜんなかったよねえ。。。笑
 
 
・この宇宙とは、いったいどうなっているのか?
 
→ 今いるこの六畳間が全宇宙のすべてなんですけど〜〜〜!! 笑笑笑
 
 
と、もう完全に一人ボケ・ツッコミのずっこけ劇場でしかない、
 
という解になってしまうわけです(笑)
 
あんなに、天に腕を突き上げて「おおお、神よ教えたまえ!!」
 
みたいな感じで情熱的にロマンティックに真理を希求してたのになあ。。。(笑)
 
最初からずーっと、そのままで自分自身が真理そのものだったなんてなあ。。。(笑)
 
あまりにも近すぎて気づかなかったなあ。。。(笑)
 
人生ぜんぶを使って高度すぎるボケをやりまくってたなあ。。。(笑)
 
 
 
と、いうわけで、現在の私は完全に「人生のネタばらし」を知ってしまってる状態なわけです。
 
ところがですね‥‥‥
 
いざ、学生たちの前に立って話をするとなると、上記に記したような、
 
「真理を求めて歩むのが芸術家というものであーる!!」
 
みたいなことを、めっちゃナチュラルに語りだすんですよ(笑)
 
 
 
これって、ある意味で、自分が知っている本当の真理と裏腹なことを、
 
ペラペラと平気で云っている、平気でウソをペラペラ語っている、という状態なわけです。
 
自分自身でも、「こんなの嘘だよ、真理を探求する必要ないよ、たった今がすなわち即真理だよ」
 
と奥底では思っているにも関わらず、水が流れるようにさらさらと、
 
「若者たちよ、真理を求めて冒険へと旅立つのだ〜〜!!」
 
みたいなことが極めて自然にテロテロと口からこぼれて、
 
「完全に本気でそう思っている人」としか思えない感じで、
 
完全自動プログラムで、言えちゃってる、言っちゃってるんですよね。
 
 
 
この状態って、いったい何が起きているのかなというと、
 
「縁起」「応病与薬」「対機説法」
 
が、まるでプログラムが自動で動き出すように起動している状態だと思うんです。
 
私はさまざまな縁によって大学で美術の講義をするという立場に立ち、
 
そこへ10代〜20代の、かつての自分のようにクリエイターを目指す若者たちが現れ、
 
その関係性の中で、その場で語られる必要のある縁起に起因した「方便」が語られる、という。
 
 
これから美術を学んでいこうという人たちを前に、いきなり、
 
「なにもする必要ないんですよ。今そのままで完璧なんですよ。にっこり」
 
なんていうことをその場で私が云うのは、たとえそれを「本当だ、真実だ」と思っていても、
 
あんまり意味のある行為じゃないということを、私は無意識に感じているんでしょうね。
 
だって、生まれたんだし、なにかしたいに決まってるやん!?(笑)
 
 
「美術の講義をする私」と「美大生」という「縁起」においては、
 
「悟り」を語る必要なんかないわけです。
 
 
 
すると、当然ですが、講義でこんな話をした私は、学生たちからしたら、
 
「悟っている人」にはまったく見えないわけですね。
 
もしも後年に、学生の中から悟りの境地に至る人が現れたとしても、その人は私に対して、
 
「あの先生は悟りを得てないから、あんな教えを説いていたんだな」という人物像になるわけです。
 
(厳密には悟りが落ちると、「あの先生も悟っていた」になるのですが)
 
 
 
で、こういった自分の体験からも、私はより一層、
 
「その人が悟っているか、悟っていないかは、外側からは100%分からないようになっている」
 
という事実について理解や確信を深めるようになったんですよね。
 
 
本来的にすべての人は悟っているという理解は落ちているですが、
 
それはそれとしても、外側からは、それが絶対100%、見抜けないようにもなってるなと。
 
 
 
ちょっと話が変わりますが、私は2〜3年くらい前は、
 
スピリチュアルに「どハマり」していました。
 
その頃は「アセンション」「次元上昇」「パラレル移行」「願望実現」「五次元移行」「高次元」
 
などなどが、絶賛マイブームでした(笑)
 
スピリチュアル・ティーチャーたちのアセンション話や高次元話を聞いては、
 
めっちゃ好奇心やワクワク心を掻き立てられ、癒やされ、元気をもらっていました。
 
 
 
ところが、だんだん意識に「悟り」が訪れる時が近づいてくると、
 
とたんにこの「アセンションを語っているスピリチュアル・ティーチャーたち」が、
 
「実はカン違いまみれで承認欲におぼれて転落してたアホな人たちだったんだな‥‥‥」
 
と思えてきて、めちゃくちゃ否定しまくるようになったんですよ。
 
 
これ、たいそう自分勝手な話だなと思います。。。(笑)
 
さんざん助けてもらって、勇気や元気や楽しみを貰っていたくせに、
 
自分が成長すると、前まで夢中だったものを急激に「ダサイ」と感じるようになり
 
「あんなもんでまだ遊んでるの? ダッサ〜! ガキ〜!!」とか思い始めるという。。。(笑)
 
 
これって完全に「思春期くらいの子の反抗期」みたいな反応ですよね!?
 
さんざん親に甘えまくって世話になってたのに、あるときから急に、
 
「親と一緒に出かけるとかダサイし! おとん臭いし! うざい! おかん来るな!」
 
とか言い出すという、思春期あるある(笑)
 
あ〜、めっちゃウザいクソガキだ〜。偉そうに云うならさっさと自立せえや!(笑)
 
(そして本人も内心では早く自立したくて仕方ないのに、力が育ってない自分が歯がゆいという)
 
 
 
こういう現象、スピリチュアル系統から悟りに向かった人だけじゃなく、
 
ノンデュアリティ方面から登山をしてきて悟りに到達した人にもよく起きる現象らしく、
 
ノンデュアリティ出身の覚者が、ノンデュアリティの一部潮流を批判する姿をよく見かけます。
 
宗教の道から入った人は、特定の宗派や教義をやたらに否定するようになったりしますね。
 
仏教を学術的に捉える方面から入った人は、特定の仏教解釈や教義を否定するようになりますね。
 
 
なる〜、そういうのって、私と同じことをやってたわけね‥‥‥と気づくことになりました(笑)
 
私も一時期、「アセンション!」「スターシード!」とか云ってるスピリチュアルリーダーたちを、
 
「まだそういうのやってるんだ‥‥‥」なんて、薄目で見ていました。。。(苦笑)
 
 
これってねえ、自分で云うのもなんですが、
 
一時期、めっちゃ甘えまくった「お世話になった人=親みたいな存在」に、
 
恥ずかしさから反抗する思春期ボーイ&思春期ガール
 
と同じ心理が横たわってるな〜と思います(笑)
 
ダサイ‥‥‥自分‥‥‥ダサイし、ガキ‥‥‥(笑)
 
 
 
 
で、ここで最初の美術の講義の話に戻るんですが。
 
私は、自分の語っていることが「悟り」や「真理」から外れていること、
 
分離していることを語っている、と自覚しているにも関わらず、
 
ペラペラと平気でウソを語って、学生たちを鼓舞したり、はっぱをかけたりしたわけです。
 
 
 
そんな自分の状態を実際に体験してみたことによって、またひとつ理解が到来したんですね。
 
かつて、私に「アセンション」や「次元上昇」「高次元」などのスピ情報を語ってくれた人々も、
 
実は内面では「悟り」が落ちてるのに、平気でウソと分かりながらウソをぺらぺら語っていた、
 
という現象が起きていたのだとしても、まったく不思議ではないな、と知ったんです。
 
 
だって実際に、自分自身がその状態を体現したわけですからね。
 
「こういうことは実際に起き得るな」という体感的理解を得ました。
 
 
 
まあ、そもそもすべての人は「すでに悟っている人=仏陀」だと、理解はしているのですが、
 
それはそれとしても、本格的に「すでに悟っている人」と、「いまだ悟りを得ていない人」とは、
 
いっさい見分けがつかないようになっているな、ということを、
 
こういった人生体験からも理解したのでした。
 
 
 
ちなみに、私は夫に対して「悟り」のことを語ることはしていません。
 
夫は私が「悟りを開いた」なんてまったく思ってないと思います。
 
ふだん、隣でゲームしてるときに他プレイヤーにムカついて、
 
「なんじゃこいつ、うざー! チクショー!!」とか騒いでる私の姿を見て、
 
「おお、この人は悟りを開いている人だ」だなんて、思うわけがないですよね(笑)
 
「悟り人」の聖者や覚者の賢そうな静謐なイメージから、あまりにもかけ離れていますからね(笑)
 
同様に、夫が実は隣の部屋で密かに瞑想とかやってて、
 
実は「悟り」を開いちゃってたとしても、私はそれを見抜くことができないと思います(笑)
 
 
 
「悟っている人」と「悟っていない人」は、100%絶対まったく見抜くことができない。
 
そのような方面からも、「すべての人は悟っている」と言うことが出来るなと思います。
 
勿論、見抜く見抜かない以前に、
 
「すべての人は悟っている」という世界像を生きてもいるのですが。
 
 
 
「本覚思想」というものがあります。
 
これは一切の衆生に本来的に備わっている仏性(悟りの智慧)について述べていますが、
 
これはとてもアクロバティックで過激で、
 
本当の意味で飲み下すのには危険もある思想だと思います。
 
 
 
「すべての人には本来、仏性が備わっている」と解釈するならば、
 
それは、マイルドかつ奥底までは届いていない解釈になるだろうと、私は思いますね。
 
「酔って看板蹴ってバカヤロー!と叫んで小便撒き散らしてるオッチャン=如来、一切智の化身」
 
というところまで踏み込んで捉えられるかどうか、ではないでしょうか。
 
 
これは、「じゃあ、どんな悪事でも起こしていいのか?」という、危険思想と近似値になりますが、
 
この危険思想の地帯を踏破した先にこそ、「悟り」の落ちる地帯があったなと思っています。
 
だから、善悪の二元性を越えて「中道」に立脚するときというのは、
 
なかなかの精神的危機の領域を超えることにもなるし、私の体験は実際そのようなものでした。
 
 
 
歴史の途上に「本覚思想」や「悪人正機説」が配置されているというのも、
 
とても面白いことだなあと感じています。
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