「悟り」は理論物理学と同じような話法を使っているなあと、先日、ふと思い出しました。

 

ところで、私は超文系人間ですので、理系のことはさっぱり分かりません。

 

ですので、この話は理論物理学といっても、聞きかじりの領域を出ない前提です。

 

一応、スピリチュアルでよく取り上げられる量子力学の話をしたいのではありません、

 

という前置きはしておきます。

 

 

 

私は、真理探求に歩みだす直前の時期、宇宙の真理に科学的に迫ろうとする天文学に、

 

やたらに関心が向いていまして、「カブリ数物連携宇宙研究機構」なんてところまで、

 

天文学や物理学の教授のお話を聞きにいったりしていました。

 

こういう趣味的な領域のことも、真理探求の道においてまったく無駄になっておらず、

 

ふとしたときに記憶庫から情報が取り出せるようになっていたなあと思います。

 

この「知識の書庫」は、探求の過程では邪魔になるものと云われがちでもありますが、

 

そうはいっても、なにごとも「良し悪しあってすべてよし」だと思いますので、

 

つくづく人生に生じることは皆、無駄がないものだなあと感じます。

 

 

 

で、私がスピリチュアルや悟り探求よりも、科学ジャンルに惹かれていた頃というのは、

 

東日本大震災の発生前後で、福島原発事故への不安から、科学者発言が注目されだした頃でした。

 

科学者たちの見解も統一性なくばらばらに割れ、喧々諤々もあちこちで生じる様を目撃し、

 

「信ずるに足るもの見いだせず」という、指針なく揺れる世相が印象的な時代となりました。

 

約10年がすぎた現在では、コロナやワクチンの問題が浮上していますが、

 

原発とコロナは、科学もまた確固とした「正解」を提供することはできないという理解を、

 

民衆の間に共通認識として一定度は広がらせた出来事でもあったように思います。

 

 

 

そもそも、誠実で真摯な科学者ほど「分からない」という現実や態度を、

 

大切にし、重んじるという姿勢が見られるなと感じています。

 

その点、誠実な真理探求者に表れる資質と近しい面があるとも思います。

 

 

「私は分かった」「真実は〜である」「真理は〜だ」という断定が出てくる意識というのは、

 

1割の真実に注視がいきすぎてしまい、その他9割の領域に「別の観点、別の真実がある」

 

という事実を見落としている意識状態といって差し支えないでしょうから。

 

 

私は「分からない」についての誠実さの感性を学ぶために、

 

人生のひと時に科学分野に惹かれたのかもしれません。

 

 

ちなみに、この「分からない」に対する誠実さを担保しようという姿勢は、

 

芸術や文学のジャンルでも重んじられているものだと思います。

 

 

さらにちなみに、スピリチュアルは「分からない」に耐えられない状態にある精神の

 

受け皿として機能していていると私は感じています。

 

ですからこの地帯では「真実をお教えします」という「確信」に溢れた発言が多くなります。

 

 

それに比して「悟り」は、「いい加減、分からないってことを受け入れましょう」という諦め、

 

「分からない」の座布団に鎮座していようじゃないか、という決意表明のようなもの、

 

という言い方もできるかもしれません。

 

 

 

 

  悟りと理論物理学はどのように似ているか

 

 

相変わらず前置きが長くなりました(笑)が、本題です。

 

理論物理学とは、論理的な推論を打ち立てるジャンルのようである、と私は見ています。

 

つまり、こんな具合です。

 

 

・宇宙のあるところに「未解明の謎」のブラックボックスがある。

 

・その謎を解き明かすために「〜〜という物質が存在する」と仮定する。

 

・その仮定した物質を活用して「〜という理論」を構築する。

 

・その理論を使えば「未解明の謎」を解き明かせるという仮説の数式を立てる。

 

・あとは「〜という物質」を実験によって観測し、実証するぞー!!

 

 

 

で、注視いただきたいのは、「こういう理屈を使えば、〜の謎や問題が解決する」という

 

「仮説」を立てているだけということなんですね。

 

そして10年程前、震災の翌年に「ヒッグス粒子」という最後の素粒子と云われるものが発見され、

 

実在することが証明されたと、世界中に衝撃ニュースがかけめぐりました。

 

 

この「ヒッグス粒子」理論はまさに上記のような話法なんですね。

 

「ヒッグス粒子というものが存在すると仮定すれば、ブラックボックスの謎が解決する」

 

という仮説を打ち立てたわけですよね。

 

 

で、科学分野の場合は、ヒッグス粒子が実験によって実際に観測された事実をもって、

 

「実在が証明された」ということにするわけです。

 

具体的には、巨万の資金を投じて超巨大な装置を作って、極小の粒子を捕まえましたね。

 

 

 

そして、ここからが本題なんですが、

 

「悟り」もこの「仮説を立てる」という手法と同じことを行っているなと私は考えるのです。

 

で、理論物理学の「謎=ブラックボックス」が、「悟り理論」では何にあたるのかというと、
 
「どうすれば苦から解放されるのか」という、あのお決まりの問に当たるんですね。
 
この「謎=ブラックボックス」に対する「解」を導き出すために、
 
「悟り理論」という「仮説」を打ち立てたわけです。
 
理論物理学の話法にあてはめると、どうなるか?
 
 

・宇宙のあるところに「どうすれば苦から解放されるか」というブラックボックス(謎)がある。

 

・その謎を解き明かすために「〜〜というものが存在する」と仮定する。

 

・それを使って「悟り理論」を構築し、その理論に従えば「苦から解放される方法」を網羅し、解き明かせるはず。

 

・この理論に従ったところ、実際に「苦からの解放」が起きた。

 

・理論が実証されたどー!!

 
 

 

と、こんな具合でしょうか。

 

釈迦が行ったこととは、壊れたパソコンの基幹となっていたプログラムを解析し、

 

不要なアプリケーションを削除していったところ、いい感じに再起動した、

 

みたいな行為でもあると思います。

 

だからでしょうか、仏教って科学者など理系の方と相性がいいようですね。

 

 

 

 

ではここで、ちょっとじっくり「悟り理論」について考察してみたいと思います。

 

「悟り」の概念の中では、以下のことが中核として語られます。

 

 

・無、空、有であり無である(空即是色色即是空)

 

・潜像世界(源、無色界)、現象世界(二元、色界)

 

・真我、観照意識

 

・この世界は幻想である(有身見)

 

 

さて、これらのことって、実証できると思いますでしょうか?

 

すべて「ただの仮説にすぎないもの」と云えるのではないでしょうか?

 

 

そして、「悟り」の面白さの醍醐味はここからだと思うのですが、

 

「悟り」はその概念によって「この世界は幻想である」ということを、規定している訳です。

 

最初に「幻想だ」と規定してある以上、「無」や「真我」の感覚を、

 

いくら「生きている私」が体感できたとしても、「それすらも幻想である」

 

と指摘されてしまうことになるんですね。

 

 

 

つまるところ、「悟り」とは、自ら打ち立てた「仮説」の証明を、

 

自らが提示している理論それ自体によって、否定するという性質を持っているのです。

 

「自分を破壊するための道具を自分の内部にあらかじめ用意してある」

 

という感じでしょうか。

 

このアクロバティックなねじくれ現象、個人的には「カックイー!」となる点です(笑)

 

中二病っぽいですなあ(笑)

 
 
 
さらに「悟り理論」の観点に立って、先のヒッグス粒子の実在証明について語るなら、
 
「現象世界のすべては幻想」と規定している訳ですから、
 
ヒッグス粒子も、粒子を検知した超お値段のはる巨大機械も、
 
「悟り」にかかると「そんなもの幻想じゃ」となってしまうわけです。
 
幻想の粒子を、幻想の機械で検知したところで、結果は「=幻想」ですから、
 
実在の証明自体を「ご破産」にしてしまう理論を、「悟り理論」は提示している訳です。
 
 
 

 

  「悟り」とは強烈な自己信仰である

 

 
じゃあ、存在を実証すべくもない、
 
「無有」「空即是色色即是空」や「有身見」「真我」「観照意識」などの仮説を、
 
「それは在る」と云う人々がいるのは、なぜなのでしょうか?
 
 
これは、どこまでいってもひたすらに、
 
自分自身が体験した体感
 
を根拠とする以外に方法がないのですよ。
 
「自分の体感」しか観測し、感じることはできないのです。
 
 
悟りを開いた人たちはみな、「真我」を自覚しているし、「空」を体感しています。
 
しかしそれは、「自分の体験的体感」の内側にしか存在しえないものなのです。
 
 
かろうじて、「真我」や「空」を自覚した後に、他者の発言などを参考にして、
 
「なるほどな、自分の感じた感覚と似たようなことを云っているな」と、
 
確認作業ができるくらいのことです。
 
しかし、それが「同じ体験である」という保証や実証はどこにも存在し得ないのです。
 
そしてまた、たとえ「あの聖人の体験と同じものを体験した」と感じられたとしても、
 
その「感じ」すらも「幻想だ」と指摘しているのが「悟り理論」なのです。
 
 
 
ここで、私はひとつの疑問を掲げたくなります。
 
それほどまでに「確かにそれは在るという実証」をすることができないものを、
 
理論の中核に据えているにも関わらず、何故、悟り人は確信を持って、
 
「真我」や「空」という状態があたかも「本当に在る」かのように語るのでしょうか?
 
 
 
その疑問について、私はこのような考えを持っています。
 
「それは、自分の体験から来る体感を、強烈に、猛烈に、信じ込んでいるからだ」
 
「自分の体験から来る体感を、唯一の神とし、強烈な信仰を持っている状態である」
 
とね。

 

 

 

つまるところですね‥‥‥

 

「悟り」というのは、実は宗教的な信仰心と構造が同じなのです。

 

実証できようもないものを、猛烈な熱意でもって「信じ込んでいる」という状態なのです。

 

一般的な宗教との相違は、信仰の対象を「自分ではない神」としているのではなく、

 

「自分だけが体験でき、自分だけが分かり、自分だけが感じられる体験的体感」

 

を信仰対象としているところですね。

 

でも、いずれにせよ「信仰にすぎない」「思い込みじゃん」と、

 

切り捨ててしまえるという構造を持っているのではないでしょうか。

 

 

 

そして、古代の哲学者や釈迦は、この「強烈な自己信仰」を持つことによって、

 

「人生の苦からの解放」の道筋を論理的に解明することができ、

 

論理的に解明できるが故に、実生活上も「苦から解放された感覚」を体感できる、

 

ということを発見したわけですね。

 

 

ものすごく平凡な言い方をすると、

 

「生活上の精神や心や思考の面倒の見方がわかった」

 

よいうほどの言い方もできることだと思います。

 

 

で、この「精神の安息」を得るために「仮説の理論」を構築したんですね。

 

ですが、繰り返し書いていますが、仮説は仮説に過ぎないのであり、

 

「それは真理である」と語ることはできません。

 

「空」も「真我」も実証できないという構造を元来持っているのですからね。

 

 

 

 

そんな訳で、私が書きたかった結論は、

 

悟りは真理の一側面ではあるが、真理それ自体ではない

 

ということでした。

 

 

 

でも、「苦からの解放」は実際に起きます。

 

(苦しい体験が消滅するのではなく、体験を苦であると判断する誤見識が消滅する)

 

つまりは、

 

「机上の空論よりも、実生活に役立つ旨味のほうが重要でっせ」

 

ということだと、私は思っています。

 

「実生活が楽になりました」ということが、もっとも重要な訳です。


仏教の本懐は、「抜苦与楽」であると、私は思いますね。

 

だからこそ、「対機説法」「応病与薬」なんですね。

 

 

 

そんな訳で、「悟りの本懐は苦からの解放である」と、私は度々語るのでしょう。

もどる