私は「真我の自覚=観照意識の自覚」が起きるまでは、

 

スピリチュアルにどっぷりハマッていました。

 

「スターシード」だの「アセンション」だの、怪しみつつも信じていました。

 

その時代は「悟り」について、ちゃんとしたことを書いている文章には、

 

出会うことができなかったし、出会っても「ちゃんと分かる」という感覚がなかったですね。

 

例えばラマナ・マハルシの本を読んでも「分かるような分からないような」という感じでした。

 

 

 

 

  「悟り」について書いてある文章が分かるようになった時代

 

 

 

で、「真我の自覚」が落ちたのが、2020年の4月くらいのこと。

 

そこからしばらくたって、「悟りが落ちたな」という意識の状態になりました。

 

自分が自分に対して仕掛けていた「悟りという幻想のひっかけ問題」の正体が分かって、

 

「あ、な〜んだ」と拍子抜けしたような感じでした。

 

 

 

その状態までいくと、今度は「悟りについてちゃんと書いてる文章」を

 

あちこちにたくさん見つけるようになりはじめました。

 

あまり読者のいない、普通の人のブログなんかにも、

 

「悟り」のことをちゃんと書いてあるものが多いんだなと気づきました。

 

 

いやむしろ、悟りについてちゃんとしたことを書いてるブログって、

 

スピリチュアル系の「願望実現しますよ!」「あなたは自分で人生を創造できます!」

 

系統のブログと比べると、圧倒的に読者数少なく、地味なものですね(笑)

 

(まあ、そのように見える現象自体を私の意識が創ってるわけですが)

 

 

 

で、自分の「悟り」が落ちると、「悟った人」の書いていることが、

 

それはそれはよく分かるようになりました。

 

「私はいない」「自他一体」「色即是空空即是色」「諸行無常」

 

「無為自然」「自由意志はない」「私の中を川が流れていくのを観るだけ」などなど。

 

はいはい、分かるよね〜、そうよね〜、となりました。

 

 

悟りに至るプロセスを描いた「十牛図」なんか、もう、めっちゃよく分かる(笑)

 

「そうそう、それな〜(笑)」みたいな感じですね。

 

探究の途中に十牛図を見たときは、「自分は今どのあたりかなあ」なんて思ってたのですが、

 

「悟り」が落ちて探究が終わって「普通」に舞い戻ってから十牛図を見ると、

 

「ほんまそれな〜」「上手いこと表現しとるな〜」と思うようになりました(笑)

 

 

 

 

 

  「悟り」について書く意識は「悟った私」に執着が生じている状態

 

 

 

で、「悟り」が落ちてしばらくの間は、そういう「悟りについてちゃんと書いている」

 

と思われる文章を読み漁る時期がつづきました。

 

自分でも「悟りとはこういうものです」という文章をやたらに書いてましたね。

 

自分に向かって書くと同時に、見えない誰かに向かって書く、という体裁でした。

 

他の「悟りについてちゃんと書いている人々」も、

 

同様に、「どこかの誰かに対して教えを説く」という姿勢が見えますね。

 

対話の会を開いたり、有料のセッションをやってる方なんかもいます。

 

そういう方々は、「悟りについて指導する」という立場に、自分を位置づけておられるようです。

 

 

 

どうもこれ、珍妙な状態ですよね。

 

「悟り」が落ちるということは、「悟っていない者などこの世に存在しない」

 

ということに気づいているということであるのに、

 

その人物の意識には、相変わらず「悟っていない者」が見えていて、

 

「私はそれに助言を与えられる状態にある」と考えているわけです。

 

 

 

ラマナ・マハルシやOSHO、ひいては釈迦すらもそうですよね。

 

「私はいない」「悟っていないものなど存在しない」と自覚しているはずの世界で、

 

なぜか「存在しないはずの悟っていない者に悟りを説いている」という、

 

あまりにも変態的なひとり芝居、猿芝居を演じている状態を表現しています。

 

 

 

で、次第に、この「悟りについて一生懸命しきりに語る、記す」という状態とは、

 

いったいなんであるかな、というようなことを考えはじめました。

 

 

 

なにせ「すべて私」な訳ですから、

 

「悟りを伝えようとやたら語る人々(釈迦含む・笑)」も、

 

私自身なわけで、今の私に、何らかの有用な意味があるからこそ、

 

「それをやたらに目撃する、意識する」という現象が起きているわけです。

 

いったい私はなんで、「悟りについてちゃんとしたことやたらにを語りたがる人」

 

たちを、ずーっと見かけつづけているんでしょうね?

 

 

 

そこで私は、こんなふうに考えました。

 

 

 

これは、「悟り」の最後の執着とも言われる「悟った私」に対する執着が、

 

この世界に向かって表現されている状態ではないかな、と。

 

 

 

釈迦は菩提樹のもとで「悟り」をひらいたあと、

 

「私が得たこの智慧はとうてい世のものに理解できるものでなく、説けない」

 

と考え、悟りの教えを説くことをせずにおりましたが、

 

そこへ「梵天勧請」が起きて、「悟りを伝えてくれ」と梵天から依頼され、

 

再び娑婆世界を旅し、死ぬまで説法をして歩き回ったという説話(お経)が残されています。

 

 

 

この「梵天勧請」の話、興味深いなあと、常々思っていたんですよね。

 

一見するとこれは、「十牛図」の中で、

 

「空の世界=無」に一度行ってから、再び「色の世界=娑婆」にもどってきて、

 

「普通の人」となり、今度は世俗の他の者にナチュラルに佳き影響を与えはじめる、

 

という姿を表現しているように見えます。

 

 

 

でも、「本当にそうかなあ?」と怪しんでいるのが、今の私です。

 

 

 

釈迦が梵天勧請の後に、ひとびとに「悟り」を説いてまわった姿について、

 

もうひとつ別の観方(観念)を採用するならば、

 

それは「悟った私」に対する執着が手放せておらず、悟り説法をやりつづけた時代

 

を表現しているのではないかな、と考えてみているのです。

 

 

 

釈迦は説法旅をつづけ、ずいぶん高齢になってから豚だかキノコだかに当たって、

 

食あたりで死にますが(この凡庸な死に方、好きです・笑)、

 

この釈迦の入滅のときを「涅槃」といいます。

 

つまり、「くりかえす煩悩の輪廻から完全に解放された状態」のことですね。

 

 

 

で、私はこのように思うわけです。

 

お釈迦さんも、「悟りについて語る」をやっていた存命中は、

 

「悟った私」という執着をまだ握りしめていた時代を表現していたのであって、

 

「完全な悟り」は「入滅=涅槃=沈黙」によってようやく完成されたということか

 

と。

 

 

つまり、完全な悟りは「完璧なる沈黙」によってしか表現できない。

 

だから「悟りについて語る」をやっているうち、目にしているうちは、

 

「完全な悟り」が表現された意識状態にはなっていないんだな、と。

 

 

ですから、世に数多いる「悟りについて語るマスターたち」とは、

 

「完全な悟りを表現していない、完全に悟っている人々」という、

 

まあ、矛盾まみれの存在である、ということになるな(笑)なんてことを思っています。

 

 

これは、悟りの殿堂である釈迦も例外ではないのでしょう。

 

「説法をしてまわっている時代の釈迦」とは、

 

「完全な悟りを表現していないことを自ら分かりながら悟りを説く、すでに悟った人」

 

ということになります。

 

あ〜、ややこし(笑)

 

 

 

 

  「悟った私」への執着が消え、「悟り」自体が消えるのか?

 

 

 

そんな訳で、今の私の興味は、

 

「悟った私」への執着が消えて、「悟りについて語る」ことを停止するフェーズ

 

に、やがて移行するのかどうか? ということです。

 

そうなると、「悟りについてちゃんと語る人々」を見かけること自体も、

 

だんだん無くなっていくのではないかなあ、なんて思っています。

 

 

 

生きながらその状態になるというのが、どんな感じなのか、

 

今のところは想像つかないですね。

 

釈迦のように「入滅=涅槃」によってソレが表現されたら嫌だなあ、

 

なんてことを思っています(笑)

 

まあ、この世の全員が「お前はすでに死んでいる状態」なんですけどね。

 

 

 

まあ、なにはともあれ、とりあえず、

 

自分がどんなふうに変化していくのかを、観察するしかないですね。

 

「悟りに完全に飽きた」「悟り、どうでもいいわ」と思いはじめるフェーズが、

 

やがて到来するのかもしれません。

 

 

 

正直なところ、今の私は、

 

「悟り、平安だけど、退屈っすわ」とか思っています(笑)

 

 

「悟り」が落ちる前の、この世界に翻弄されて、

 

苦悩したり悔しがったり、夢を目指してがむしゃらだったりした時代、

 

正直いって、懐かしいですわ〜(笑)

 

 

 

こんなこと書くと、どこかの誰かに、

 

「おまえのソレは悟りではない、悟りそこねなのである」

 

なんて言われそうですけれど(笑)

 

 

そんな言葉自体が鏡の反照でしかないわけですから、

 

あ〜、ほんまややこしいもんです(笑)

 

やれやれ......

 

 

 

 

いつか機会があったら、「悟り」が落ちたあとに、

 

人生に「身近な人の死」という衝撃的なことが起きて、

 

やっぱり感情が爆発した話について書こうかなと思います。

 

めちゃめちゃ泣いたり、爆裂に怒り散らしたりしました(笑)

 

 

「お前やっぱり、ぜんぜん悟ってないやないか、この野狐禅」なんて言われそう(笑)

 

 

 

でもね〜、その衝撃事件による爆裂な感情も、

 

さらさら〜っと、すぐに過ぎて消えていっちゃったんですよねえ。

 

そのせいで、「あ〜、やっぱり、私には『悟り』って、退屈かもだわ〜」

 

なんて思ってるのが、今です(笑)

 

 

 

まあ、「人生のマスター」ちっくよろしくで、

 

どんな人生の激動にも精神が揺さぶられず平安、っていう意味では、

 

さほど苦しくもないし(現実にはめたくそ泣いて、怒り散らしてるんですけど)、

 

やっぱり楽チンなんですけどねえ。

 

 

 

あんなに「悟りたい」と思ってうんうんうなって生きてきたのに、

 

人間って、ややこしいもんですなあ。

 

 

 

「今ここ、に居続ける」

 

とかいうのにも、もうだんだん飽きてきた(笑)

 

 

 

さて、自分の人生、いったいどうなるんでしょう。

 

「生きる」はつづく。

 

(生きる、それに尽きますなあ)

もどる