悟り探求について書いている方の記事をたどっていると、度々、

 

「世界が二次元の写真や絵画のように見える」

 

といった記述があるのを見かけました。

 

絵画のように、写真のように、三次元のものが二次元に見えると。

 

 

これについては私は、(ふ〜ん、そんなもんか)と思っていた程度で、

 

自分にはそのような感覚はあまりありませんでした。

 

ただ、10年以上前の真理探求にハマる直前の頃に、普通に道を歩いていたときに、

 

急に世界がコマ送りになったような、時間がコマ切れになって体感されたような、

 

そういう感覚に瞬間的に陥ったことはありました。

 

この「時間がコマ切れに感じられる」という感覚は、統合失調症の方にもよく現れる症状らしく、

 

当時は精神科医や、脳科学や心理学の研究者の本をよく読んでいました。

 

木村敏さんの『時間と自己』(中公新書)とか、当時は目の覚める思いで読みました。

 

「時間」の認識と精神異常についての研究書をけっこう夢中で読んでいたのです。

 

科学雑誌の「ニュートン」を購読して「時間幻想論」に出会って興奮したりしてました。

 

 

 

いつもよく読ませていただいていたSEINAさんのブログでも、

 

ジャンル分けがなく、ぜんぶ同じに感じてしまう、という記述がありました。

 

 

 

この「ぜんぶ同じに感じてしまう感覚」について探る本としては、

 

『奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき』 ジル・ボルト・テイラー 著

 

なんか面白いんじゃないかなと思っています。

 

これは脳卒中を起こした脳科学者の女性が、

 

壊れていく左脳と、左脳が壊れるに伴い表面化してくる右脳の機能を、

 

脳卒中体験中に、科学者目線で観察しまくるという、科学者魂が凄すぎる本です(笑)

 

著者の彼女は、左脳が「名付け」「社会的な分類」「時間」「約束」などを担っており、

 

その機能が壊れるが故に、右脳由来の「すべてが粒子になって溶け合う」ような感覚状態で、

 

世界を観察&体感するという経験をするのですが、それを「ニルバーナ=涅槃」と表現しています。

 

 

これは、スピリチュアルで語られるところの「ワンネス体験」や、

 

悟り探求で語られるところの「一瞥体験」を、脳機能の視点から語っている状態かと思います。

 

 

ただし、「空」や「無色界」の視座から語るならば、

 

そもそも「脳が存在している」という事自体も幻想、ということになってしまいますが。

 

ひとまずは、脳はこの世に在るという「色界」の視座から語るとするならば、

 

左脳は、万象に名付けや社会的分類や定義付けを行い、社会の約束事を統括する機能を持ち、

 

右脳は、万象について「すべて素粒子」というような、定義付けのない感受をする機能を持つ、

 

という見方ができるのでしょうね。

 

(あくまでこれもひとつの見方に過ぎず、正解とまでは断言できませんが)

 

 

そして、「すべて素粒子」と感じられる視座からこの世界を見渡すならば、

 

「私の手」と「そこの椅子」も同じツブツブで、境目も異なりもない、

 

つまりは、「分離がない」「分離感がない = ニルバーナ = ワンネス体験」

 

として感じられるのでしょうね。

 

 

 

 

で、自分の話にもどします。

 

(もどす割には、自分の話はしょぼいんですが・笑)

 

この、「三次元が二次元に見える感覚」というのを、

 

自分は別に体験したことないなあと、思っていたのですが、

 

今から2ヶ月ほど前に、緑の多い場所を散歩していたとき、「ソレ」が起きました。

 

そこは、大きな木がたくさんあって清々しい場所なので、よく散歩に行くのですが、

 

いつもなら、奥の方まで続くグリーンの木々に囲まれ天国的な心地良さを感じるところ、

 

「あれ? あれ? つーか、あんたら、奥行きどこやった(笑笑笑)」

 

みたいな感じに見えていたんです。

 

「な〜んか平べったくない? なんか〜、映像っぽいんですけど〜(笑笑笑)」

 

くらいのレベルなんですけどね(しょぼいですね・笑)

 

 

 

で、その他にも、先日、知人の芸術家のアトリエに遊びに行った時のこと。

 

この方、仕事柄、家中に本がめっちゃめちゃあるんですね。

 

3LDKのでかい外国人仕様のマンションで、各部屋やたらでかいんですが、

 

そんな部屋を2室分借りていて、3部屋&リビングがぜんぶ本部屋になっているという、

 

その筋の方(どの筋の方・笑)が見たら「分かる〜」とか「ええな〜」となるような、

 

アート作品と本にみっちみちに囲まれた素敵すぎる部屋だったんですが、

 

その時の光景や、しゃべってる相手の顔を思い出すと、

 

なんか完全に「平べったい映像」みたいな感じでしか湧いてこないんですよねえ。

 

「ただ、映像を見ていただけ」みたいな。

 

 

昔はもっと、他者と会った後って、臨場感や手触りや実感があったよなあ‥‥‥

 

なんて思いますねえ。

 

「すべてがコマ送りの映像で、ひたすら流れ去っているだけ」

 

みたいになっていて、リアル現実に対する体感が、ずいぶん変わってる感じがします。

 

その日は、かなり濃密な人生についての語り合いの時間を持ったんですけどね。

 

その芸術家さんのお部屋がとても素敵で、これまでならめっちゃ興奮して、

 

記憶に強烈に焼き付いても良さそうなものなんですけどね。

 

なんか、カッスカスの「夢の記憶」みたいな程度の感覚でしか思い出せないという。

 

 

 

よく、スピリチュアルの世界では、主にバシャールなどが、

 

「みなさんはその内、現実を夢のように体験するようになる」

 

「現実と夢が変わらないものだと理解していく」

 

と言っていましたが、感覚的には、確かにそんな具合になっていってるなあと思います。

 

 

 

お金に対する感覚もずいぶん変わっている実感があります。

 

派手な業界で稼ぎの良かった家族の死を通じて、さまざまな事務手続きの機会に、

 

(会社経営に関することなども含まれていました)

 

何度も、これまで扱ったことのないようなケタ数のお金を扱うことになりました。

 

そういった経験を通じて、お金について「ただの数字に過ぎない」という感覚が、

 

自分の意識に浸透していったなあ、という感じがします。

 

 

だから今の私はお金について、「あってもなくても気にならない」

 

という意識状態になってきているようです。

 

意識がお金に縛られてないなあ、という感覚が育っています。

 

 

 

意識状態の変化や、「この世界の見え方」の変化を観察するのって、

 

面白いなあと思います。

 

今後も、くるくると感覚は変化してゆくのかな。

 

どんなふうに変化するのやら、楽しみです。

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