「悟りの探求」「真理探求」「覚醒の道」などと云われるものって、
とても趣深いパラドックスを抱えるもので、
「悟り」が落ちた人はみな、
「なんだ、真理を探す必要なんか、最初からなかったんじゃないか‥‥‥」
ということに気づいてしまうと思います。
だから、お笑いの「ボケ・ツッコミ」みたいなんですねえ。
あんなに必死にうろうろと迷って探し回ったのに、
自分自身が、「探していたもの、そのもの」だったと気づいてしまう。
自分との距離ゼロの場所にあるものを探し回るという、
たいそうな間抜けをやっていたことに気づいてしまう。
なぜ、探す必要もない真理を「探せ」と促す者が表れるのでしょうか?
それは、本当に大切なことは、「最後の到達点」ではなく、
山頂を目指し、そして家に帰ってくるまでの道中で、
「出会う景色」「出会う人」「出会う無数の生命たち」「出会う風」「出会う天気」
なのであると、そういったものの中にこそ、尊さを見ているからではないでしょうか?
明日の遠足を楽しみにし、ワクワクしてリュックにおやつを詰めている我が子に対して、
「どうせ、今ここにいる家に帰ってくるのだから、遠足など行く必要はない」
「同じ所に戻ってくるのに、なぜわざわざ出かけるのだ?」
と説いて聞かせる必要はない、という云い方もできるかもしれません。
だまって見送り、だまって行かせ、だまって帰宅した者を迎える、
それは、我が子を見守る親の姿そのものなのかもしれません。
そしてまた、「遠足」には一応「目的地」は設定されていますが、
目的地に到着することが遠足の目的である、とは一概に云えないのではないでしょうか。
途中のバスでやるクイズだって、お弁当の時間だって、オヤツを交換するのだって、
食後にドッヂボールするのも、木に登るのも、楽しいしね。
道に迷って不安になることも、ケガをすることも、忘れ物をしてくることだってある。
私は子供を持ったことはありませんが、
さまざまな子の育てをする施設を経営する友人の言葉で、とても心に残っているものがあります。
「子供たちのやることに一切口も手も出さず、黙って見守っているのが最も難しい修行だ」
と、このような言葉でした。
この「いちばん難しいこと」をやってくれているのが、
「如来の大慈悲」であり、「神の愛」であり、「源」であり、「意識」「それ」である、
と、そんな云い方もできるのかもしれません。
結局は家に戻ってくるのだから家から出なということにして、遠足に出かけないならば、
山頂にたどりつくまでの道中にあった、青い花、赤い花、あの鳥、この鳥を、
「私は青い花を見たよ」「ぼくは黄色い鳥を見たんだよ」などと、
語り合うこともまた出来ません。
探求の道のりは、人それぞれにとても個性的です。
それはそのまま、無数の人々の人生の個別性そのものの表現であると思います。
ですから、各々に遠足の道中で、異なった花、異なった鳥を見ることになります。
すべての花、すべての鳥に、個別の妙趣が宿っているのでしょうね。
それは、「完全完璧に等価なる価値」であると思います。
仏教徒の道、イスラム教徒の道、キリスト教徒の道、自然信仰の道、
スピリチュアリストの道、無神論者の道、科学者の道、哲学者の道、
芸術家の道、文学者の道、お笑い芸人の道、格闘家の道、
母の道、父の道、子の道
すべてが、完全完璧に等価。
青い花は見たが、黄色い鳥は見られなかったという人は、
「ようし、次の遠足では、黄色い鳥が出現すると聞くルートから登山をしてみよう」
なんてことを、思うのかもしれません。
人間は、生きている間に、「数限りない仏」に出会うのだなあと思います。
「数限りない仏」とは、生きている間に出会う現象、景色、人、生命のすべてです。
「仏の化身」「一切智の化身」ではないものは、この世に存在しないのだから。
ある日、
「すべてが一切智の化身であり、私を育てた親だったのだ」
と気づいたとき、
憎んだ人も、馬鹿にした人も、自分の人生を損壊させたと思っていたすべての存在が、
仏性そのものとして、昇華されてゆきました。
それが私の人生の、ひとつの到達点であり、
あらゆる苦しみが霧散して癒えていった地帯でした。
※
と、まあ、こんなしみじみしたこと書いておいて、どうせすぐまた忘れて、
「ムカツクー!!」とか平気やりだすんですけどね、わたくし(笑)
なにせまあ、かなりのアホなので、
人生何杯でも、おかわり美味しく楽しめてしまう(笑)
それが「人間」をやることの醍醐味でもあるのでしょうか。