先日、熱心な宗教信者の親の元に生まれた話を少し書きました。
とはいえ、私は親との関係性に軋轢はあまりなく、親には感謝しかありません。
両親共にのんびりとした所のある、楽天家の天然ぼけな性格で、
なにかを強制されたこともなく、過干渉でもなく、適度に放任で、
成績などの良し悪しについて特になにか言われるということもなく、
人生の重要な選択の局面では、常に自分の思いを最優先にすることができました。
余計な口出しをせず、焦らせることもなく、じっと黙って見守っていてくれた日々を、
とてもありがたく感じています。
そんな両親も、もう70代となると、やはり老いが見えるようになってきました。
また、楽天的な性格の人たちとはいっても、さまざまな人生の悲哀を越えてきてもいます。
悲惨な形で我が親を亡くし、悲惨な形で我が子を亡くしと、
一般的に「不幸」とされるようなこともそれなりに体験し、
その時々で、どれほどの悲しみが胸に溢れたことだろうか、と想像したものでした。
そんな老いた両親のそばにいると、近頃ではつくづくと、
自分がまるで、我が子を見守るような慈しみの心を感じていることに気づくようになりました。
両親はいささか衝撃度の強い形で我が子を失うという経験をしました。
悲嘆にくれて泣き叫ぶ姿を見るのは、心がひりついて辛かったですが、
ただただ、その悲しみに耐え、泣きに泣き、自分で乗り越えていく姿を、
口出しもせず、余計な手出しもせず、じっと見守っているしかありませんでした。
そしてつい先ほど、父親が玄関のところで激しい音を立てて転倒しました。
ばたりと倒れて唸っている父の姿を目の当たりにし、
高齢なのに骨折でもしたらと、胸がつぶれるような思いが湧くと同時に、
助けおこして、まるで幼い我が子にでもするように、
「大丈夫、大丈夫だよ」
と抱きしめ、さすって、安心させてやりたいという衝動が、咄嗟に湧くのを感じました。
けれど実際には、娘から急に抱きしめられてもビックリするだろうし、
大人にむけてするような対応をしただけでした。
(ケガは打ち身程度で済みました)
どうやら完全に立場が逆転して、親心のような状態になっているなあと思いながらも、
こういった、
「ただただ、自分で自分の人生を味わう姿を見守っているしかない」
「余計な口も手も出さず、自分で考え、選び、立ち上がってゆく姿を見守るしかない」
「黙って、なにもせず、相手の生命力を信じて、ひたすらに見守る」
ということこそ、「親」という存在がやってくれていたことだなあと感じ入りました。
それが、もっとも難しい人生修行であり、
如来の大慈悲というべきものでもあるかなと、改めて思いました。
「源の意識」「真我」、さまざまな言い方がありますけれどね。
なにも言わず、なにもせず、ただただひたすらに見守っているという心様。
そして、父の転倒でひとしきり慌てた家族でしたが、
今はもう、テレビで漫才を見て笑いながら、
「〜〜は上手いわ〜」「〜〜はなんか嫌味があってあかんわ」だのだの、
いい加減で勝手なことをやいのやいのと言ったりして、騒がしくしています。
人生だな〜って思いますね。
人生そのものだな、と。
親と子の関係があり、生きる人死ぬ人があり、出会いや別れがあり、
見守られ、見守って、涙も苦しみもあり、笑いも歓びもあり。
これまで、新緑めぐるという人格をネット空間に生み出し、
「悟り」という言葉を道具にしてどろんこ遊びをするかのように、
あっちやこっちへと思考を転がしてきましたが、
なんとな〜く、今日の家族の一連の出来事の果に、
また再び、ふっと、夢から醒めたような感覚がありました。
思考遊びの夢から醒めて、目の前の人生をそのまま丸ごと味わうという世界に、
再び戻ろうとしている、という言い方もできるかもしれないし、
あるいは、ひとつの夢から醒めて、再びまた次の「人生」という夢の中に入ろうとしている、
という、そんな感じでもあるのかもしれません。
ただ、なんとな〜く、
人生が、日常が、そのままで、ただただ、味わい深く、愛しい。
そんな人間らしい感覚を、ふわっと感じられた、
今日は、そんな日だった気がします。