唐突だが嫌いな言葉第一位、人それぞれ。
この言葉はなんだか虫唾が走る。そんなの当たり前だから。
人には人の価値観がある。そんなの当たり前。
この言葉ってのは都合よくコミュニケーションが断絶されてしまう。人には人の考えがあるなら、それをしっかり聞くべきだし、それに真摯に答えるべきで、価値観とかそういった曖昧な言葉で、ふんわり場を理解した気になってる。
考えすぎ。この言葉も嫌いで、要は社会ってのは大まかな暫定で動いてるので、長い物には巻かれろ的なのり。「そうなってんだから」とか無意識的な合意形成
が会話の大部分を占めているので、全てが雰囲気で終わってる。人が何かに向き合い辛くなってる。考え過ぎであるなら、逆を言うと社会を信仰し過ぎ。俺はそ
んなもんハナから信じていないから、自分で考えて行動する。それが社会からズレようが一向に構わない。
「何、怒ってんの?」とか、人ってのは、もう人のことを情報としてしか処理できないのか?なんて思う。あの人社長、あの人アーティスト、あの人サラリーマ
ン。その時点でバイアスかかってるから、ほとんどその人を見ていないんだよね。役割として記号が分担されてるに過ぎないのにそこに対して情報的な価値を信
仰してしまってるから、素の人と向き合うのが怖いんだよね。
この世の中、妙なお膳立てが蔓延りすぎで、相手に優しく先回りして本質が蔑ろにされてる。例えばその人だから優しく喋るのであれば、その時点で決め
つけちゃってんだね。易しい解像度でその人の可能性を奪ってんだ。こういうサービス精神が、物事をふんわりふんわりさせていく。要は社会がアンパンマンの
解像度になってる。いい奴がいて、悪い奴がいる。正義の味方が悪をやっつける。馬鹿みてー。
本質的なことってのは二元論で語れるものではないし、良いも悪いもない。ただ自分が人生に求めるものはなんなのか。状況や情報で人は幸せになれない。芸能
人も自殺するし、金持ちでもつまんなそうな奴がいくらでもいる。だからこそ自分自身に問う必要がある。何が好きで、何が嫌いか。
誰かが教えてくれる答えってのはある種の麻薬みたいなもんで、その瞬間その答えを聞いてる時は気持ちいいんだ。自分の実感値や経験に立脚していない故に浮
き足立って、数日経ったらその効果も薄れて社会に舞い戻る。要はこれも人を特別視してるに過ぎない。麻薬でもなんでもええんやけど、その答えが自分にとっ
て価値があるなら、自分でその麻薬を打てるようにならなければ、ただ人の話を聞いて終わりなんだ。
だから行動が大事で、持ち帰った答えをその日限りのものにしない。教祖を崇めるんじゃなく、自分が教祖化していかないと、いつまで経っても誰かの奴隷で、
自分の解像度が見えてこない。俺は適当な俗物だが、そういった情報に汚染されるのがまっぴら御免なので、自分の言葉で喋るし発信する。そしてその言葉が届
いているなら、自分もそういう風に行動して欲しいって思う。
俺はサービスで作家をやっている訳ではないから、皆んなを幸せにしたい訳ではない。自分で幸せになる方法を探って欲しいのだ。そういった特異なパターンと
して露出することで、社会が幾分か風通しがよくなって生きやすくなればいいと思う。前例があれば物事がスムーズになるので、「あんな奴も生きてんのか?」
ぐらいのロールモデルになれれば幸いである。だがそこに価値なんかないってこと。人を特別視した瞬間に、人はもうそこには向かえないのだ。
天才などの崇める類の言葉もある種の差別なんだ。みんな人間。俺はそこだけを見て生きていきます。