探求中と現在の自分とで変化したこと 〜再び世俗を生きるために〜




探求中と、「探求の終わり」を迎えてからの変化って、人それぞれあると思うのですが、 私の場合、大きなものに「小説を読めるようになってきた」というのがあります。

もともと私は、どちらかというと読書好きなほうの子でした。 といっても、鬼のような読書家には及ばないところがあって、 それが強いコンプレックスでもあったんですけどね。 なぜなら、私は売文業をやっていて、周囲には鬼のような読書家ばかり居たからです。 いわゆる「知識層」の人たちに囲まれていました。 だからなんだろうなあ、「バカ」とか「知識教養がない」と思われることに対して、 ルサンチマンが強かったんですよね。 いつも、「頭が悪いと思われないように」とか「教養ないのがバレないように」とか、 そんなことを思って「知ったか顔」をつくって生きていました(笑) でも一方で、アホアホなキャラが愛されてきた人生でもあったので、 そっちのほうが自分という人間の「本流の軸」だったんだろうなあと思います。

で、そういうルサンチマンがあるからこそ、なんでしょうね。 探求の道に歩みだす少し前から、徹底的に 「物語」「小説」にあたるものが読めなくなっていきました。 ドキュメンタリーの本とかなら、まだしも読めたんですが。 「私=個人」の人生ストーリーによって表現されたものを、 なぜか全く読めなくなっていったんです。 例えるなら、油の差されていない機械のように、ギギギと頭も体も重くなって動かなくなる、 そんな感じになって、読書がまったく継続できなくなりました。 まあ、この頃は読書に限らず、生活全般「錆びた機械」状態だったんですけどね。

この、生活全般が「錆びた機械」のようになって重苦しくなる感じ、 真理探求であれスピリチュアル探求であれ、そういう道に入る人には「あるある」でしょうね。 こういうのが「すべてはエネルギー」なんて言われる所以でもあるんだろうなあ。 確かに体の重さ軽さの変化は、エネルギー的な重い軽いの感覚、という感じでしたから。

個人のストーリーを崩壊させるために、小説が読めなくなった

探求の道に歩みだすに際し、 「私=個人」の人生ストーリーに関するものが摂取できなくなっていったのは何故か? 小説だけじゃなく、映画も好きだったのに、さっぱり見る気がしなくなっていきました。 この状態にはとても困りました。 なにせ売文稼業は本を読むことも仕事の一環ですからね。 息も絶え絶え読もうともがくが、読めない。 コンプレックスはますます酷くなっていきました。

で、その代わり、スピリチュアル系の本なら浴びるように読めるようになってたんですよね。 分厚い本を1日5冊くらいは夢中で一気読みできていました。 鬼読書家には届かないかもしれませんが、それ以前の自分はどちらかというと、 一般的な人と比べても「遅読」な人間だったので、格段に吸収スピードが違った訳です。 (売文業にも関わらず一般より明らかに遅読。遅読の読書好きなので苦しんだわけですね) 喉の乾きを潤そうとするように、ガブガブと水を飲んでいるような状態ですね。

こういう現象が起きた理由、後からよく分かるようになっていきました。 さまざまな要因がありますが、その第一には、
(1)私という個人のストーリーから抜け出す前段階として、「自分の人生スト―リー」にまずは集中するため
という理由があったと思います。 探求のゴールである「悟り」とは、 まさに「私という個人のストーリーからの脱出&解放」ですからね。 そこに向かうためには、小説や映画などの「他者の人生ストーリー」に意識が向く状態を抑制し、 徹底的に「私の人生」に意識の焦点を絞り込んでいく必要があったんでしょうね。 究極まで「私の人生」に意識を集中させることで、かえって「私の人生」を内部から崩壊させる。 まるでブラックホールが自分の重力に耐えかね内側に収縮して光を生じない漆黒となり、 そのブラックホールが新宇宙誕生のエネルギーを保有すると考えられる(という説がある)、 というのに似ているなあと思います。 「人間即ち、ひとつの宇宙」ですね。

他にも、小説や映画が摂取できなくなった理由には、こういうものがあると思います。
(2)知識教養を重要視するのではなく、「直感」「インスピレーション」から動くことによって情報を得るという体感を理解させるため。
(3)「知識層=賢い、智慧者」という考えを崩壊させるため。「アホ=智慧者、一切智の化身」であると見る原理を徹底的に理解させるため。
(この理解には善悪二元性を超越することが不可欠だと思います。悪人と見える者が悪人ではないと見破る力)
(4)外部から得た「知識」ではなく、自分の内部にある「智慧」の力を理解させるため。
(5)自分のやりたいことを叶えるのに、必ずしも知識教養が必要ではないということを理解させるため。
などなど、他にもありそうですが、ひとまず今思い浮かんだところを記しました。 この中で(3)(4)は真理探求に必要な理解でしたが、 (2)や(5)は自分の人生上の夢にとって非常に実践的に活用できる理解となりました。 なぜなら、探求以前の私は、 「自分の叶えたい夢は、膨大に読書をしている鬼知識の持ち主じゃないと叶えられないだろう」 と強烈に思い込んでいて、自信のなさに苛まれていましたから。

現在は、知識教養の権化のような人たちと接しても、 リラックスして「アホな自分」を素直に晒せるようになりましたねえ。 そして、そういう「素の自分」をさらしている方が、他者にとっても心地よい、 変に壁を感じない、気のおけない人物になれるということも分かりました。 「アホの自分でいい」という理解は、私の人生を格段に「楽」なものにしてくれました。

とはいえ、探求の前から、どっちかというと人にからかってもらって和んでもらうような、 アホなところが「売り」の人間ではあったんですけどね(笑) でも、どこかで、バカにされると腹を立てるような「プライド」で凝り固まっていたなと、 つくづく思います。 バカ&アホがバレるのが怖かったんですね。アホが売りな人間なのに(笑) こんなに他者から可愛がられるお得な気質って他にないのになあ(笑) バカ&アホはとっても人を明るくリラックスした気持ちにしてくれる要素だと思います。

引きこもりから脱し、他者の人生ストーリーへの共感を取りもどす

で、現在は、再び「小説を読みたい」という気持ちがむくむく湧いてきていて、 実際に、以前よりはするすると読めるようになってきています。 映画もまったく見られなくなっていたのに、 「悟り」が落ちて以後の、家族の衝撃的な死という経験を経てしばらくしたら、 再び、映画やアニメを楽しむ衝動が動きはじめたんです。

これは、「家族の衝撃の死」を体験して、激しく「感情」を動かしたことで、 「当たり前の普通の人生を歩む、人間らしい感情を味わう感覚」が、 戻りはじめている、ということだろうと感じています。

「悟り」って、「悟った私」というアイデンティティに執着が生まれてしまうと、 他者に対してどこかボウッとした、社会性に欠ける感覚を抱き、 空虚さ、虚無の中に滞空してしまう、という面があるなと、私は強く感じています。

私は特にこの「虚無に滞在している感じ」について、 「悟りの師」や「スピリチュアル・ティーチャー」をやっている方々からこそ、 その匂いを強く感じ取っているんですよね。 「悟りの師」をやっている方は、この「悟った私というアイデンティティとの一体化」から、 脱出するときに、少々、精神的な危機を迎えているように見えます。 「悟った私」の中に引きこもって、世俗の中で「普通に生きる」から逃げていた自分を、 発見してしまう瞬間が訪れるように、私には観察されています。

とても正確に真摯に「悟り」の状態について記している、悟りの著作もあるような方が、 この「恐怖」と向き合っている様子を、二度ほど観察しました。 具体的なお名前はあえて出しませんが。

だってねえ、「悟り」の探求に向かう人って、例外なく、 「普通に生きる」に対して強烈な恐怖が発動したところから、探求をスタートさせますからね。 探求が終わって「普通に生きる」の中に再び戻っていこうとするときには、 やはりそれなりの恐怖心が発動し、自我がその恐怖を隠してしまうと思います。

ところが「私はすでに悟ったのだ」というアイデンティティに執着し、しがみついてしまうため、 「普通に生きる、を実は恐れている自分」に気づかなくなってしまう、 こういう現象を、「悟りの師」となる意識状態は、否応なく内包していると思いますね。

で、今現在の自分は、この「悟った私」の中に引きこもって「俗」を避ける状態から、 脱却しようとしているんだなあ、と感じています。

正直なところ、深い探求に向かう前から、私は徹底的に「世間」を避けだしましたから。 仕事を放棄し、ニュースを見なくなり、以前の友人たちと関係が切れていき、 出会うのはスピリチュアルや悟りに興味がある人ばかりになっていき‥‥‥と。 こういう状態について、「手放し」という言い方が探求道では頻繁に使われますが、 別の観点から見るなら「逃避」という言い方もまたできると思います。

そしてこれは、「探求に集中するために必要だった道のり」と言うことができると同時に、 「普通に生きる、が怖くて、世間・世俗から逃げた道のり」という言い方もまたできます。

ものごとには常に、矛盾する複数の側面が張り付いていますからね。 良い側面もあれば、悪い側面だって、やはりあるものだと思います。 良い、悪い、どちらもない、ではなく(これでは空のみになります)、 良い、悪い、どちらもある、だと思うのです(空と色の一体化、合一、両方ある)。

「他者の人生のストーリー」である、映画や小説を再び楽しめるようになってきたということは、 私にとって「俗の中で普通に生きる」をやるために必要な、社会性、感情といったものが、 再び取り戻されようとしているんだな、という現象だと思っています。

「悟り後の虚無、虚脱、空虚の期間」って、思いの外、長いと思うんです。 この虚無を(我知らず)抱えている段階で「悟りの師」をやってしまうと、 自分にとってそれは、「悟った私というアイデンティティにしがみつき、引きこもっている状態」 となるなと思っているので、それはやらない、というのが私の人生道です。

これは、私なりに別の言い方をするなら、 「高座からご高説なぞ垂れとらんと、さっさと河原者に下らんかい!!」 ということになります(笑)

下の下の者がおらなければ、 その下の者こそが、高位の者と比肩する、 一切智の化身、如来の化身であることに気づくことはできない。

私の生き方は「悟りを語る」の中にはないなあ、と思っています。 「下の下のほうにいって、アホ&バカ、滑稽者をやり、その座から真を映ずる」 それが、私という個性の生きたい道なんだなあと、そんなことを感じています。

生きたい道はそれぞれですから、「悟りの先生」を否定する必要もないのですが、 滑稽者の役割とは、王や賢者を「チャカして混ぜっ返すこと」ですからね。 悟りを語る聖者の前にドラえもんの着ぐるみで乱入して、 「どもーーー天上天下唯我独尊マンでーーーす!!」と叫んで踊るのが、 滑稽者の役割だと思います(笑)

「あ、あかん! これ、ふざけたらアカン空気の場所や! 逃げろ!!」 と騒ぎながらふざけるだけふざけてトンズラするお笑い芸人の姿が目に浮かぶようです(笑)

まあ、なんだかんだ言って「全員、滑稽者」なんですけどね(笑) 同じ滑稽者なら、見かけ上で賢ぶるよりも、 見かけ上も滑稽者である、という状態で生きたいなと思っています。

それはまた、お釈迦様のような「真正迫真の滑稽者」にはまだなれない、 ということなのかもしれません(笑) あるいは、中二病の子が、仏教のありがたいお説法より、 ロックンロールのほうがカッコいいぜ! と言ってるようなものかもしれません(笑) なにはともあれ、全員滑稽者なんだから、困るし、困らないですね(笑)

という訳で、「悟り後」の人生の就職先、多彩だなあ、という話でした(笑)

—2022.09.05 新緑めぐる




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