釈迦牟尼仏陀への尊敬心 〜釈尊大先生の凄さの極みは「慢」にあり〜




釈尊大先生と書くと、山田様大先生みたいな言い方でアホっぽいですが、書きたいのです(笑)

「悟り」について考えていると、つくづくもつくづく、釈尊は凄すぎるなあと思います。 個人的に、釈尊の凄さの極みのひとつは、悟りを開いてからというもの、 ず〜っと死ぬまで「慢」を披露しつづけてくださったことだと思っています。 (こんなん書いたら、仏教学者さんやお坊さんに怒られそう・笑)

だってね、「悟りを開いた」ということは、即ち、 「この世のすべての人はすでに悟っている」という理解が落ちることじゃないですか? にも関わらず釈尊は、生涯を通じて、めっちゃおじいちゃんになるまでずーっと、 「すでに悟っている人たち」に対して、 「釈迦の、釈迦に説法」という、アクロバティックすぎるボケをやり続けたわけです。 この「すでに悟っている人たちに悟りについて偉そうに教え説き示す」という態度は、 「慢」の状態に他ならないわけです。 そして、この「慢」ときたら、悟り探求において滅するべき煩悩の代表選手じゃないですか!? 阿羅漢では、「それ」から解放されているべきもののはずです。

これを、釈尊の弟子の立場から見たら、どうなるでしょうか? 目の前の師匠は、「慢」を滅せよと教えている。 にも関わらず、そのお師匠はたった今、 その「慢」を盛大にひけらかしている最中、という状態なわけです。
これは、弟子、混乱しますっっっって!!! 笑笑笑
めっちゃ、分かりにくいですって!!!!! 笑笑笑

尊敬するお師匠さまが、「慢を滅せよ」「慢を滅するのが最も難しいぞ」とか言ってくるのに、 そのお師匠さまは、「慢」の衣をギンギラに着飾って、たった今見せつけている最中という(笑) なにがしたいんですか! からかってるんですか! 笑笑笑
これは‥‥‥分からないよ‥‥‥(笑)
これは‥‥‥だまされるよ‥‥‥(笑)

で、真理の探求道とは、いかに「自我から真理を隠すか」がキモになっていると思います。 その隠されたものを「自我」がひとつひとつ見つけて、暴き、謎解きしていくことが、 最高にエキサイティングで、人生ぜんぶを賭けても価値があるほど面白いよという、 「謎解き迷路脱出ゲーム」なわけです。

そんな訳ですから、「いかに気づかせないように工夫して騙すか」ということこそが、 真理(如来)からの最大の愛 = 大慈悲 なわけだなと思います。 「隠し芸=ドッキリ大作戦」こそが如来の大慈悲なんですね。

だからこそ、如来である釈尊は、 「慢を盛大に見せびらかしながら、慢こそ捨てろと云う」なんていう、 最大級に「ボケだと気づきにくいボケ」をやってくださったんですね。

釈尊がこんなにも高度すぎるアクロバティックな「ボケ」をやってくれてなかったら、 私、速攻でなぞなぞの答えが分かっちゃって、迷路を楽しめなかったと思います(笑)

釈尊はこの手の「アクロバティック・ボケ」を無数に残してくださっていますが、 うんとお年寄りになるまで、この高度すぎる謎かけを無数に積み重ねてくださったお心を、 如来の大慈悲 と云わずして、なんというのか、私は知りません(笑)

やっぱり釈迦牟尼仏陀は偉大すぎるなと思います。 自分だったら、ぜったい途中で笑ってしまって、バラしちゃうと思うもん(笑) ドッキリを仕掛けるのが下手なテレビクルーみたいになってしまうと思います。

(こんなに尊敬しているのに、やっぱり仏教徒や仏教学者さんにめっちゃ怒られそう。。。)

—2022.09.09 新緑めぐる




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