悟りもまた捨てる以外道なし




昨日また、新しく内部破壊が起きました。 『ふいに訪れた、小さな理解』 新緑めぐる,2022年9月17日 やはり、というべきか、なんというべきか‥‥‥(笑) 「悟り」もまた内部に自己破壊を起こす「種」を持っていました。 そのことに気づいてしまった。 いや、以前から薄々気づいていたし、これまでと同様に、 「それ」を気づかせるための言葉は、自ら発せられていたのだけれど(笑)

「悟り」もまた、真理それ自体では在れません。 「真理」というものは、玉虫色の珠のごときとでもいいましょうか、 「無限の見え方」を提供できるものです。 その、恐るべきほどの無限さ。 そして、「悟り」はその「無限の見え方」の中のひとつに過ぎないものです。 ただ、「苦からの解放=解脱」という本懐を持つものではありますが。

「苦からの解放=解脱」という本懐は持つものの、 「真理それ自体」ではないのだから、 やはり、悟りもまた、捨てる以外に「道」はないのです。 そして、あとにはやはり、「生きる」以外には残らない(笑) 「生きる」の内部に現れる「これ」以外にない。

かつて、「悟り」や「覚醒」について著書を持つまでになり、 その途中では、一瞥体験からくる「悟りそこね」の告白すらもし、 その後にもまた、長く、真摯に(それは真摯に)、「悟り」についての考察を記録した、 そういう方がいたのですが、 その方はある日、 「もしかして‥‥‥」と言い残し、消えてしまいました(笑)

その方もまた、「悟り」を捨てざるを得ないことに気づいてしまったのでしょう。 そして、本当の意味で、「生きる」の中にもどっていったのでしょう。 「生きる」の中でしか出会うことのできないものと、出会うために。

今日という日は奇しくも、喪った大切な人の月命日です。

—2022.09.17 新緑めぐる




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