真理の探求へと歩みだすことに意味はないのか?
「悟りの探求」「真理探求」「覚醒の道」などと云われるものって、 とても趣深いパラドックスを抱えるもので、 「悟り」が落ちた人はみな、 「なんだ、真理を探す必要なんか、最初からなかったんじゃないか‥‥‥」 ということに気づいてしまうと思います。 だから、お笑いの「ボケ・ツッコミ」みたいなんですねえ。
あんなに必死にうろうろと迷って探し回ったのに、 自分自身が、「探していたもの、そのもの」だったと気づいてしまう。 自分との距離ゼロの場所にあるものを探し回るという、 たいそうな間抜けをやっていたことに気づいてしまう。
しかし、真理を探求すること、探求道それ自体には、 おおいに意味も価値もあると思います。 それは、「生きること」そのものだからです。 私は以前の記事で、「真理は探す必要すらないものである」と理解しているにも関わらず、 美術学生さんたちに、真理への探求を促すような言葉を発したという記事を書きました。 『「悟り人」は悟りを語らず真理について平気でウソを云うという話』 新緑めぐる,2022年8月30日 なぜ、探す必要もない真理を「探せ」と促す者が表れるのでしょうか? それは、本当に大切なことは、「最後の到達点」ではなく、 山頂を目指し、そして家に帰ってくるまでの道中で、 「出会う景色」「出会う人」「出会う無数の生命たち」「出会う風」「出会う天気」 なのであると、そういったものの中にこそ、尊さを見ているからではないでしょうか?
明日の遠足を楽しみにし、ワクワクしてリュックにおやつを詰めている我が子に対して、 「どうせ、今ここにいる家に帰ってくるのだから、遠足など行く必要はない」 「同じ所に戻ってくるのに、なぜわざわざ出かけるのだ?」 と説いて聞かせる必要はない、という云い方もできるかもしれません。 だまって見送り、だまって行かせ、だまって帰宅した者を迎える、 それは、我が子を見守る親の姿そのものなのかもしれません。 そしてまた、「遠足」には一応「目的地」は設定されていますが、 目的地に到着することが遠足の目的である、とは一概に云えないのではないでしょうか。 途中のバスでやるクイズだって、お弁当の時間だって、オヤツを交換するのだって、 食後にドッヂボールするのも、木に登るのも、楽しいしね。 道に迷って不安になることも、ケガをすることも、忘れ物をしてくることだってある。
私は子供を持ったことはありませんが、 さまざまな子の育てをする施設を経営する友人の言葉で、とても心に残っているものがあります。 「子供たちのやることに一切口も手も出さず、黙って見守っているのが最も難しい修行だ」 と、このような言葉でした。 この「いちばん難しいこと」をやってくれているのが、 「如来の大慈悲」であり、「神の愛」であり、「源」であり、「意識」「それ」である、 と、そんな云い方もできるのかもしれません。
結局は家に戻ってくるのだから家から出ないということにして、遠足に出かけないならば、 山頂にたどりつくまでの道中にあった、青い花、赤い花、あの鳥、この鳥を、 「私は青い花を見たよ」「ぼくは黄色い鳥を見たんだよ」などと、 語り合うこともまた出来ません。
探求の道のりは、人それぞれにとても個性的です。 それはそのまま、無数の人々の人生の個別性そのものの表現であると思います。 ですから、各々に遠足の道中で、異なった花、異なった鳥を見ることになります。 すべての花、すべての鳥に、個別の妙趣が宿っているのでしょうね。 それは、「完全完璧に等価なる価値」であると思います。
仏教徒の道、イスラム教徒の道、キリスト教徒の道、自然信仰の道、 スピリチュアリストの道、無神論者の道、科学者の道、哲学者の道、 芸術家の道、文学者の道、お笑い芸人の道、格闘家の道、 母の道、父の道、子の道 すべてが、完全完璧に等価。
青い花は見たが、黄色い鳥は見られなかったという人は、 「ようし、次の遠足では、黄色い鳥が出現すると聞くルートから登山をしてみよう」 なんてことを、思うのかもしれません。
人間は、生きている間に、「数限りない仏」に出会うのだなあと思います。 「数限りない仏」とは、生きている間に出会う現象、景色、人、生命のすべてです。 「仏の化身」「一切智の化身」ではないものは、この世に存在しないのだから。
ある日、 「すべてが一切智の化身であり、私を育てた親だったのだ」 と気づいたとき、 憎んだ人も、馬鹿にした人も、自分の人生を損壊させたと思っていたすべての存在が、 仏性そのものとして、昇華されてゆきました。 それが私の人生の、ひとつの到達点であり、 あらゆる苦しみが霧散して癒えていった地帯でした。
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と、まあ、こんなしみじみしたこと書いておいて、どうせすぐまた忘れて、
「ムカツクー!!」とか平気やりだすんですけどね、わたくし(笑)
なにせまあ、かなりのアホなので、
人生何杯でも、おかわり美味しく楽しめてしまう(笑)
それが「人間」をやることの醍醐味でもあるのでしょうか。
—2022.10.02 新緑めぐる