夫とお金と激変期の到来と 〜問題が問題でなくなる話〜




部屋とYシャツと私、みたいなタイトルですが(もはや古い......笑) 私的なことを書きます。 私と夫はお互いに40代前半で結婚しました。 で、付き合っているのかどうか曖昧な頃に、夫が 「口座に50万あれば〜はイケるのどうの〜」といった話をしたことがありました。 その話を聞いたとき、私はどういうわけか、 (ふーん、この人は口座に貯金50万円しかないんだな)と思い込みました。 話の内容を誤解し、脳に「口座に50万」という情報だけがインプットされたのです。

それ以前から彼は、実家がとても貧乏で、全額奨学金で高校や大学を出たことや、 会社がブラック企業だいう話をしていたので、 そっか、この人は実家が貧乏で小さい会社でブラック労働で大変だから貯金が50万円なんだな、 と思っていたのです。 世間一般の価値観から云うと、実家暮らしで40代で貯蓄50万の男性って、 結婚相手としては「不良物件」などと揶揄されてしまうことも多いのではないかと思います。

でも、自分は気にしませんでした。 全く気にしなかったと云うと嘘になるけれど、 自分自身が、20代、30代はフリーランスでばりばり稼いで、 「自立した強い女」を気取って風を切って生きていたものの、 30代中盤から稼げない職業にシフトしどんどん貧乏になっていったので、 相手のことを云える立場ではなかったのが大きいと思います。 むしろ相手も貧乏だと思うとコンプレックスを感じずにすむので、 気楽だと感じていたくらいです。

あと、当時は「自分の命は生涯自分で養う」という意識が強かった為もあります。 「自立していない女」になるのがものすごく嫌だったんですよね。貧乏なくせに。 この意識が、「生きる」に対する恐怖心の根っこにもなっていましたが。 現在では、「この世界よ私を生かしやがれ」という感じで、 自分の生命維持に関する自己責任は完全に放棄していますけどね。 自動運転で生命が維持されてゆく様をただ観察しているだけ、という生き方になっています。

また、他にも理由があって、それは私が「条件」で自分の結婚相手を選ぶのが徹底的に嫌、 というタイプの人間だったためです。 当時は行き遅れもいいところで、結婚できないことへの焦りや不安は頂点に達していましたが、 「好き」「一緒にいて楽しい」という自分のインスピレーションが働かない人と、 結婚するなんてことは自分の人生にあってはならない、という思いがとても強く、 年収や学歴などといった「条件」で結婚相手を妥協して決めることだけは絶対にしたくない、 という思いが強烈だったために、「婚活」というのも一切やっていませんでした。 夫とは社会問題に関するトークイベントでたまたま出会いました。 恋愛結婚以外ありえない、と思っていたんですね。40歳前後だというのに。 屈折したプライドでがちがちの状態だったとも云えますが、 結果的には、そういう強烈な思い込みに囚われた道のりが、自分には合っていました。

で、夫は世間一般の価値観からいうと、モテそうなタイプでは全くありません。 低身長だし、頭髪薄くなってるし、まったくモテなさそうな感じの人です。 低身長、頭髪薄い、貯金50万、ブラック企業、実家暮らしで家がド貧乏。 「結婚相手の条件」としては、めちゃめちゃ女性たちから避けられそうですね。 ところが私は、彼の「顔面」が、みょ〜に好きだったんですよね。 彼を見て「イケメン」と云う人はこの世に存在しないのではないかと思います。 なにせ、うちの母は「温水さんみたい」と云っていましたから(温水さんすみません) ところが、ど〜も私は、彼の顔面をまじまじ見るほどに好ましさを感じるんですね。 「この木目の渦がなぜか好き」という感覚に近いのかもしれません(笑) 理屈じゃない。つくづくと、「いい男だなあ」という思いが湧いてきます。 他者から「温水さん」と言われる人も、自分の視覚から見ると男前に見えます。 温水さんを男前だと感じる人も、きっとたくさんいるのでしょうね。 そして、一緒にいてとにかく楽しく、ラクで、穏やかで、くつろぎ、幸福感がありました。 貯金50万でブラック企業で実家貧乏だけど、優しくしっかりした人柄だったので、 きっと相当に苦労をしてきて人間性が磨かれているんだなあ、と思っていました。

話がそれますが、私はかつては、美人美人と言われたタイプでした。かつては。 その美人女性属性が自分の本性とズレ過ぎてて、辛さの要因だったりもしました。 奥底の性質が小2男子と60代後半男性って感じが強いので、 表層的な美人女性の役割に「誰だこいつは??」的な違和感がつきまとっていました。 今では、加齢と共に「棒に頭がついてるだけ」的空気感になってきて落ち着きました(笑) そんな訳なので、女性の姿に変身したがる男性の気持ちがよく分かりますね。 私も自分の本質は「68歳の坊さん」位の感じがしっくりくるので(笑) イケメン男性になるのとかも嫌で、自己認識が70代手前のおじさんの姿なんです。 70代手前のおじさんの意識が色気のある女性の肉体を持っていたら‥‥‥ まあ、そりゃなんか持て余すわな、と思います(笑)

話をもどして‥‥‥ なんだかんだあって「結婚しましょう」ということになりました。 「条件」はいっさい無視して結婚すると決めていた私は、 彼の出身大学も、年収も、会社の名前すら聞かないままに結婚を決めていました。 ごく一般的な社会常識から見れば、相手の素性をここまで調べもせず聞きもせずに、 結婚を決めるような女は、「アホ」「愚か」と見なされるのかもしれません。 しかし私には、常識よりも自分の感性のほうが重要だったのです。

それで、彼が私の両親に挨拶をしに実家までやってきたのですが、 その時、父が「で、お勤め先はどちらですか?」と聞きました。 まあ、親としては当然の態度なんでしょうね。 で、私はその段階になって、はじめて彼の勤め先を知ったわけです(笑)

するとですね、いわゆる誰でも知っている大きいグループの会社だったんです。 (あれ?? ブラック企業じゃなかったっけ??)と思いました(笑) 福利厚生もしっかりした、給料の良い会社なんですよね。

どうやら私は「ブラック企業=経営が厳しい小さい会社」と思い込んでいたんですね。 そして、彼は私に対してしきりに「ブラックだ、ブラックだ」と云っていましたが、 これは労働がきつく残業が多い時期には「ブラックだ」と愚痴をこぼすクセがあっただけで、 労働がゆるく、休みをしっかりもらえ、補償や給料の恩恵をしっかり味わえている時期は、 「まじホワイトだわ〜」とか云っていると、そういう意味だったと分かりました(笑)

その上、結婚の準備についてあれこれ話し合っている時期に、彼は突然私に、 「オレ、実は貯金がめちゃめちゃ趣味なんだ。めっちゃ貯金あるんだ」と告白してきました。 (へ?? 貯金50万なんじゃなかったん??)とびっくりしました(笑)

そんな訳で、彼が優良ホワイト企業勤めで、給料がよく、貯金も凄い(億り人くさい) ということが分かって、結婚して数年たって今に至るわけですが、 その彼の給料や貯金額が私に関係あるかというと、これが、ぜんぜん関係ないんですよ(笑) だって私は彼の扶養には入っていない自営業者であり、税金も保険も自分で払ってるし、 生活費は50%50%で家に入れているので、彼に養われてはいないですから。 彼の独身時代の貯蓄は100%彼のものだと思っていますので、使い道にも口出ししません。

そんな訳で、夫の給与がいくらなのかも貯蓄がいくらあるのかも、未だに知りません(笑) つまり、パートナーの貯金が50万でも億り人でも関係ないし、自分には影響がない、 という点で、なにも変わらないんですよねえ。 あってもなくても同じ、自分にとっては「ただのゼロ」のまま。

しかしですね、この「貯金50万だと思っていた」の件、 ことあるごとに、夫にやたらに感謝されるんですよね(笑) 夫はこの件をふと思い出すたびに、しきりに、 「貯金50万でも結婚しようと思ってくれて本当にありがとう!!」 と、いたく感動している顔で感謝の言葉を発してくれるんですよね。 ときどき突然思い出しては感謝の気持ちが溢れてくるようです。 こっちは、ただの浅はかな「天然ボケのアホ」だっただけなのに(笑) べつになーんにもしてないのに、やたらに感謝してもらえる。 「アホだっただけ」という理由で感謝されまくる、ということは、あるもんですね(笑) やっぱりアホは強い、という私の中の確信が深まります。 賢さよりもアホさのほうが強いという事って、この世にいっぱいあるなと思います。

で、話は変わりますが、 うちの親は割とよい企業に勤めて出世もし、収入が良かったはずなんですが、 (過去に給与明細を見せてもらったのですが、一千数百万は年収がありました) どういうわけか、老後資金がぜんぜんなかったらしいんですよ。 老後資金2000万が必要とか言われている時代に、ゼロ。 なんでやねん!!と思いました(笑) だって、めちゃめちゃド庶民の暮らしぶりですからね〜。 家も30坪の庶民家だし、車は軽だし、デザートはスーパーの菓子だし。 金出ていくところないだろ!!と思うんですが、なぜか貯蓄ないらしいんですよ。

ところがですね、何度か書いているように、今年に入って家族が衝撃死をしまして、 すると、本人が家族にまったく知らせずに勝手に生命保険に入っていたので、 ドーンと大きい額の保険金が親のもとに遺産として入ってきたんですよ。 ゼロだった銀行口座に、突如、東京に新築一軒家建てられる位の金額が出現しました。 ちなみに、この亡くなった家族も貯蓄遺産はゼロでした。 (むしろ死後に家賃の支払いが来たり、葬儀代やらでマイナスだった) 貯蓄能力がまったくないのは血筋なのかもしれません(笑)

さてさて、こうやって見ると、お金ってつくづく「ただの数字だな〜」って感じますね。 50万と思っていたら、フタを開けてみると大きい額が突然現れたり ゼロだと思っていたところに、大きい額が突然湧いて出てきたり、 まったくもって「シュレディンガーの猫」ですね。 フタを開けてみないと、そこにどんな現象が顕現するかは全く分からないという。

再び夫の話に戻りますが、「実家が貧乏」というのは本当で、 結婚して一年ほどたったある時に、彼はひどく緊張した顔で、 「実は身内が生活保護を受けている」(病気で働けないため)と告白してきました。 彼にしてみると、重大な告白で、とても緊張しドギマギしたようなのですが、 その事実を聞いた私の感想は、「ふーん、そうなんだ」と思っただけでした。

この「ふーん、そうなんだ」は、それ以上でも以下でもない、という感じで、 問題について考えようと思考を探っても、 「ふーん」以上の思考を掴むということが、出来ないような感じなんですね。 「ふーん」以外のことを思うことが、どうにもできない(笑) つまり、「重大な問題の告白」という気分でドギマギしている彼と対比して、 私のほうは「問題である」という意識自体を脳内に湧かせることができない状態なのです。

これは夫と私と、逆の立場でも同じようなことがありました。 私は両親の宗教(世間的に悪評も多くて有名なところ)が原因で、 過去に何度か結婚差別や、差別的な態度や発言にさらされてきました。 だから、結婚したいと思う恋人に親の宗教について告白することは、 私にとって絶望するか否かの分かれ目と思うほど、緊張するし恐ろしいことでした。 ところが、震えながら意を決して告白したときの夫の態度は、 「へ〜、そうなんだ」だけだったんですよね。 それ以上も、それ以下も、なんにも他に要素がない、平べった〜い感じ(笑) 過去の恋人たちはみな「うわ〜、それは結婚のとき反対されるだろうな」とか、 「宗教だけはキツイな〜」なんて云って、私を絶望に突き落としてきたのに。

夫の生活保護事案に対する、私の「ふ〜ん、そうなんだ」と、 私の宗教問題に対する、夫の「へ〜、そうなんだ」は、同じ感覚なのだと思います。 その件について「問題だ」「大変だ」と思考する信号電子が、そもそも脳回路に流れない、 といったような状態なのでしょう。 どれだけ自分の脳みそを探っても、「ふーん」以外の要素が出てこない感じ(笑) こんな具合に、自分が深刻に「問題だ」と悩んでいることを、 「まったく問題だと感じることができない人」って、世の中に存在してるものだと思います。

「自分が変われば、まわりが変わる」なんて言い方がよくされていますが、 「悟り後」の私の感覚では、 単にその項目で苦しみたいという体験期間(煩悩味わい期間)が終了し、 次の状態に移行したから、問題ではなくなっただけ という考え方になっています。 諸行無常ですね。 問題だと感じている事も、いつまでも問題である、ということはなく、 時期が来れば自然に流れ去って、問題ではなくなってゆくだけなのだなと。

さて、夫の話。 そんなこんなで、今年に入ってからの私は、 身内がトンデモ死をして、突然、なかった大金が湧いてきたりと、 「どうやら人生が激変期に入ったな〜」ということを感じているんですが。 で、ここへ来て夫が最近、「会社をやめて、海外に移住する」と言いだしました。

私は夫に対して、彼が「やりたい」と思ったことに対する自由をいっさい制限しない、 ということを心に決めています。 なぜなら、私自身が「自由に動きたいときに動けるように動きたい」 という項目を侵犯されることが、人生でもっとも嫌なことだからです。 自分の自由を絶対的に保証したく、侵犯もされたくないので、 家族である夫の自由も保証します。

極論になりますが、夫がもしも浮気や不倫をしたとしても、 悲しさや嫌な気持ちを伝えることはあっても、行動制限をするようなことはしないでしょうね。 自分は浮気や不倫をしたいという願望はあまり湧いてこないですが、 浮気や不倫を「悪徳」と見なす感性も消滅していますから。 中道の立脚点から見れば、あらゆる「悪」の判断はご破産となってしまいます。

故に「中道」に立脚するときというのは、過去に強烈な抑圧体験のある人ほど、 狂気の際に立たされるような、精神の崩壊現象を体験する可能性が高いと思います。 レイプも殺人も戦争も「悪ではない」ということを徹底的に理解する領域というのは、 精神が追い詰められ、狂気が発動する危険をはらんでいます。 大切な人を殺された人や、レイプ被害や虐待にあった人が、 「それは悪ではなかった」と理解するなんて、至難の行ですからね。 私も、人生で二度ほど殺されかけた経験や、暴力や性暴力を受けた経験があるので、 中道の立脚点は、精神が危険な状態に追い込まれる領域となりました。

この「中道の立脚」が中途半端だと、他者批判の精神が旺盛になると思います。 敵の多い人生となり、他者を批評非難し、攻撃してしまうメンタリティが、 なかなか消滅せずにくすぶり続けることかと思います。 しかし、この状態も「煩悩(=体験意欲)の減価償却期間」が過ぎると、 自然に次の状態に移行するのでしょう。 他者への怒りや批判や非難が湧いてくるならば、それを体験すればよいだけです。 それが、その瞬間にする必要のあること、「意識が体験したいこと」だからです。

と、話があっちこっちにそれて長くなりましたが、 夫は近々、勤めをやめて海外に飛ぶのかもしれません。 夫は貯蓄がたくさんあるからいいけれど、私は貯蓄がありません。 しかし、夫が海外に飛ぶなら、ほいほいついていったり、遊びにいったりしたいと思います。 生活の基盤がころころ変わるのは、自分の趣味にとてもよく合っているからです。 「さて、どうすっかな〜。どっからお金出てくるかな〜」 なんて思っているのが現在です。 どうなるのかは知りませんが、自由気ままに、おもしろおかしく生きたいですね。 自分がいったい、これから何をするのやら、とても楽しみです。

—2022.11.01 新緑めぐる




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