悟りに対する疑問がだんだん晴れていった過程を年表形式で
私は探求中はインド系の覚者の本はさして読みませんでした。 ラマナ・マハルシの本を一冊だけ中途半端に読んだ程度です(読み終えてすらいない笑) つまり、知識レベルについてはそんな状態でもイケちゃうよね、と思っています(笑) 初期仏教やお経の本はけっこう読みましたが、 なにせ私は、予知夢や超常現象や宇宙人やクンダリーニ覚醒やと浮かれトンチキになって、 「おもろー!おもろー!」と騒ぎはしゃぎながら探求道を歩いたタイプですから。 ちょっとしたアンポンタンコースを歩いた登山者と言えるかもしれません(笑) 神妙な顔して「静寂、とりあえず静寂な」とか言ってられないタイプなんですよね。 オモロ&ビックリなエンタメ体験がないと、つまらなくて授業をトンズラするタイプです(笑)
自分がこんなんですから、超常的な現象や霊能が発現しない人は、 元来の肉体精神に幼稚さがなく、落ち着いてるタイプかもですよ? と思いますね。 悟りと、霊能力やクンダリーニ覚醒や宇宙人やらって、なーんの関係もないですからね。 無理やり関連づけることもできる、というだけの話で、作用関係は繋がっていません。 「悟りに向かう道のりの途中にクンダリーニ覚醒があった」と語ることはできても、 「クンダリーニを覚醒させれば悟りに至る」と語るのは正確ではない、と思います。
そして私は探求の過程では「ノンデュアリティ」「非二元」という言葉や思想には、 なぜか出会うことなく歩いてきた、というタイプなんですよね。 不思議なほど出会わないというか、単語がアンテナに引っ掛かってきませんでした。 探求を終えてから、ノンデュアリティや非二元の方面からやって来た方って多いんだなあ、 ということに気づいていった次第です。 これについては、真我実現後に「悟り」「非二元」について詳細にブログを記しておられた方と、 対話している数日間の中で、こんな内容の夢を見ました。 「私は遠足のお弁当のオカズの中にノンデュアリティというオカズを入れてこなかった」 「だがしかし、それだからこそ、この場(この講義の受講生としては)ではいい感じに機能する」
それはつまり、私がノンデュアリティについて知らない事が功を奏して、 対話を通じて相手の方にもなんらかの気づきや理解が生じる、ということのようでした。 知識や智慧について「知らない」ということが、我知らず他者の気づきの起動源になる、 ということは、なるほど大いにあるだろうなあと思った出来事でした。
悟り後の揺り戻し期間について
で、話がそれましたが、、、 探求中はインド系覚者の本は読まなかった私ですが、先日、 ラメッシ・S・バルセカールの『誰がかまうもんか?!』という本を読んでいて、 ほんまそれな〜! いいこと書いてあるな〜、と個人的に思う箇所があったので引用します。
ラメッシ
おわかりのように、肝心なのはこのことです。つまり、一つの体験が起こると、エゴは、「ああ、私は悟った」と言います。それから一週間後、その体験が消えると、「私は悟っていない」と言うのです。ひどい失望です。ヴァサント
そのとおりです。そして私は、これはプロセスであり、この行ったり来たりは、それがそこに留まるまで続くと思います。ラメッシ
ですから、この「理解のトンボ返り」、行ったり来たりが、今ナラヤニが話していた混乱です。その行ったり来たりの「理解のトンボ返り」が起こるがままにし、それを受け入れてください。混乱は起こります。その混乱を受け入れてください。それと戦ってはいけません。— 『誰がかまうもんか?! 』 ラメッシ・バルセカール , 高木悠鼓
と、引用はここまでです。 私のこのブログは、上記の「行ったり来たりの理解のトンボ返り」にあたると思っています。 「書く」という行為によって自分の内面を整理し、 「振り子の揺れ」のようなエネルギーがだんだん無くなって、やがて止まる という状態になるための過程だなあと。
で、「悟り」について書いている方のブログはたいがい、 「コレ=理解のトンボ返り」のためのものなんですよね。 だから、それぞれの人が(深層意識では)「理解の誤差の修正」を目的として行っているので、 (悟りを語っている以上、その人は必ず「途上の人」です) 各々に、「それは違うのでは?」と感じるようなことも書かれていたりします。 これが、探求中の視点の私から見ると「混乱」の元になったりもしたのですが、 一方、この「混乱」があるからこそ、意識が撹拌されて新たな「気づき」が生まれてくるので、 「意見や見解の異なりという混乱」もまた、必要があって在るものなんですよね。 だから、混乱するままにさせておくと、やがて落ち着く ということが言えるかと思います。
私の真我実現から、意識が落ち着いていくまでの道のり
私には、自分の意識状態の変化をたびたび年表にして眺める、という趣味があります(笑) すると、2020年からここまでの道のりは、「理解のトンボ返り」が起きていた、 そういう期間だったんだなあ、というのがよく分かって面白いです。 以下のような具合です。 もしかしたら、私と似たような経路を辿る方もいらっしゃるかもしれません。 また、「気づき」が到来する順番は人によって違う、ということも言えるかと思います。
2020年4月 真我の自覚
「空白JP」というサイトさんを読んだことと、 ヘルメス・J・シャンブさんの『“それ”は在る』を読んだこと、 上記のふたつが連動して、「真我の自覚」が起きました。 「あれ、これじゃん」という、とても素朴で地味な気づきの感覚でした。 『空白JP - 悟りと真理について』 https://ku-haku.jp
2020年8月から約2ヶ月 クンダリーニ覚醒を体験
「真我の自覚」が起きてからも、自分に性暴力を行った友人(女性)への怒りが、 何度も再燃して、体が「最後の悲鳴」をあげているような状態になりました。 まだまだ体に力みや緊張があると感じていました。 この段階で「クンダリーニ覚醒」と言われる現象を体験します。 「どうすればよいか」は指導夢を見たので、すべて自己流で対応しました。 身体中を「気の球」が巡るのを、ひたすら外部に放出させると共に、大量の涙も放出されました。
※現在の私は「クンダリーニ覚醒」は「無明」の産物である、という理解でいます。 有身見への強烈な執着や思い込みが見せている幻想体験に過ぎないので、その点ご留意ください。 この体験は、全く必要なものではありません。 ただ、起きる因果律を持つ人には否応なく起きる、というだけです。
2020年12月 中道の確立 最終局面に近い「怒り」の燃料放出が起きる
性暴力を行った友人(女性)への怒りをきっちり発散させることをしないと、 肉体の強張りは解けない、と考え、相手に「怒りの手紙」を送りました。 それをやったことで、一気に体の緊張が溶けていくのを感じました。
※これは下手にスピリチュアルを学んで「許さなければいけない」という概念に囚われたため、 その「概念の囚われ=執着、思い込み」を外すための出来事だったと思います。 「中道」の意識が確立しはじめた段階でもあったと思います。 「愛」や「善性」の思い込みを、大きく手放した瞬間でした。 「腹が立ったら怒ってもよい」「怒る必要があるときは、怒るという体験こそが必要である」 ということを理解しました。
2021年3月 本格的な悟りの到来 潜在意識から「自作自演」をバラされる
2月に、ずっと大切に進めてきた大きな仕事の企画が白紙となる出来事がありました。 この出来事は、「使命感」「正しさのために〜しなければいけない」という執着、囚われを外す ために重要な役割を果たしてくれたと思います。
やりがいがあり、名声も得られる「使命」を手放さなければいけなくて悔しさも感じましたが、 同時に、仕事を捨て自由の身となったことで大きな解放感が到来しました。 ここでもまた、体の強張りが一気に解消された、そんな出来事でもありました。
そしてこの出来事のしばらく後に、以前にも書いたQHHTを受け、潜在意識と対話しました。 『悟りビジネス、スピリチュアルビジネスで儲けるのは是か非か? 〜 悟り探求の中核はすべて無料 〜』 新緑めぐる,2022年10月26日 この時に潜在意識から「今までのさまざまな体験は、すべて自作自演で遊んでるだけだ」 という指摘を受けます。
この指摘によって 本格的な悟りの到来 が起きていき、定着していく道が始まったように思います。 それ以前までは「頭では理解している」という状態で、まだまだ自我が納得していない感じでした。
2021年3月からしばらくの間 「空性」を体感したが故の虚脱感が始まる
潜在意識から「自作自演」を指摘されたことで、 「な〜んだ、すべて幻だったんだ」「な〜んだ、世界はすべて私の中にあったんだ」 という理解が浸透してきました。 安心を感じると共に、「なにをやっても幻」「有名になろうがどうせ全部自分じゃん」 という類の「生きる」をつまらなく感じる気持ちが出てきました。 「世界」に対して積極的に働きかけるという意欲を失うんですね。 こういう虚脱症状を感じる方は意外と多いように見受けられます。 この時期は、旅行したり日常をエンジョイしながらも、 どこかぼんやりとして「なんとなくつまらない」「退屈」という感覚に滞在していました。
いわゆる「地に足がついていない」という状態です。
2021年12月 悟りの理解のトンボ返り 自分と他者の悟り体験の異なりが気になる
「自分が得た悟りは、本物の悟りなのか?」という疑問が度々湧いてきた時期です。
「この人は真摯に悟りを語っているのに、他のノンデュアリティ話者を批判するのはなぜ?」 という疑問が湧き、悟りの本を書いている著者のブログに質問を寄せました。 それは議論ではなく、穏やかな対話の形で進みました。 この出来事によって、 「悟りが到来したとはいっても、人によって気づきの起きる順番が違っているのだ」 ということを理解しました。
だから、「悟りの見解」がちょっとずつ人によって異なっていても構わないんですよね。 それによって批判精神が湧いたり、混乱することすらも、必要な体験として生じているので、 批判したり、混乱したり、疑問が湧く状態を味わえばいいだけなんですね。
だって、その混乱や疑問や批判精神は「悟り」について考えないと、 体験すらできないものなのですから、それを体験したいので、 源の意識が「悟りの誤差」という体験を生じさせているのですから。
ちなみにこの時期は、まだまだ「微妙なイライラ」が発生していた時期でもありました。 意見の異なりや気に食わないものを見ては、ちょいちょいイライラしていました(笑)
2022年3月 最終局面の「恐怖」「不安」「怒り」の発散
何度かブログにも書いていますが、「突然の家族の死で警察に行く」という、 さまざまな波乱万丈があった気がする自分の人生の中でも、 「最大の衝撃」と感じる出来事が発生しました。
これがきっかけで、40年以上の仲の親友に対して爆裂な怒りを発散し絶縁する事態も発生。
この出来事によって「恐怖」「不安」「怒り」の燃料が、 ほぼ残りカス程度しか残らないまでに、使い切られたな〜という感覚がありました。
親友に怒りを爆発させて以後は、イライラを感じる場面がほぼなくなりました。 でもまだ「完全に無くなった」とは感じていませんけどね(笑)
そして、家族の突然死という究極の「全く予想外な不可知の未来」と対面したことで、 「未来に対する不安」「死や離別への恐怖」などのエネルギーが消し飛びました。
これは、いよいよ「悟り」が定着するために必要な出来事だったろうなあと思います。
「煩悩」とは固形燃料のようなもので、火種が尽きると自然に消滅してゆくものだ、 ということを体験的に理解していくことにもなりました。
2022年7月 「悟り」の理解のトンボ返りを定着させる期間に入る
そして、2022年の7月から「新緑めぐる」として、 「悟り」についてブログに記録をしだして現在に至ります。
今は「悟りの理解についてのトンボ返り」という煩悩の固形燃料を燃やしている最中、 といったところかと思います。
この「理解のトンボ返り」をくり返している内に、「空性の虚脱感」もだんだん消えてきて、 今度は「生きるってほんと面白いな〜!!エキサイティング!!」 という歓びが取り戻されてゆきました。
それもこれも、本ブログを読んでくださり、さまざまに反応してくださったみなさんや、 それぞれに面白い語り口で真理探求や人生について記し、 私の好奇心を潤してくださった皆様のおかげだと思っています。
私の場合は、「悟り」についての固形燃料(煩悩)が燃え尽きたら、 おそらく「新緑めぐる」という名前は捨て、 このブログの記事も、すべて消してしまうのではないかと思います。
そして、かつて使っていた名前で、再び創作をする人生へと戻ってゆくと思います。
いつ燃料が尽きるのかは分かりませんが、、、、(笑) 一期一会の出会いに、心より感謝申し上げます。
ふ〜、今日も朝から、朝食を食べることもせずに起きたとたんにお茶一杯と共に、 ず〜っとこの文章を書いていました(笑)
社会的な生活を優先するならば、本当はひとつ、契約事関連の文書を書かないといけないのに、 そんなのそっちのけで、起きてすぐにPCに飛びついてブログを書き出すという(笑)
人間って本当に「その瞬間にやりたいこと」なら、 まったく苦もなく、何時間でもやっていられるのですねえ。
以前の私は、この「瞬間のやりたいことの力」を信じておらず、 まったく同じ「書く」という行為であっても、 ひたすら社会的に見て「努力」に見える行動に人生を費やしていました。 それはそれはしんどく、体の動きが悪かったです(笑)
行為は同じでも「内容の質」がまったく異なっているんですねえ。 この「ブログを書く」という行為を通じて、 今、その原理を体感的に理解し尽くしている状態でもあるんだなあと思います。
なにはともあれ、私は、「書く」という行為に関しては、 朝から晩まで、飽きることなく、ずーっとやっています。 かつて、無心でラクガキをし続けていた頃のように。
この「才能」が、やがてのびのびと開花するといいな〜と思っています。 が、どうなるかは人生次第で、分からないのですから、 人生が展開するままに任せて、ゆだねていくしかないですね(笑)
人間はつくづく、何歳からでも生まれ変われるし、新たな才能が開花するのだなと思います。
だから、「生きること」は、たまらなく面白いですね(笑)
—2022.11.22 新緑めぐる