対極の観点はどちらも存在し、どちらも存在しない




スピリチュアルや悟りの観点から「この世の仕組み」について語る方々の言葉を見ていると、 それぞれの場でまったく対極の観点が存在している様子をよく見かけます。 この現象、とても面白いなと感じています。

こういった無数の観点の「矛盾の階梯」や「パラドックス」でくるくると混乱することこそ、 「悟り探求」や「真理探求」と言われるものの醍醐味であり面白さだなあと、 個人的には思っています。 パラドックスを抜けたときの「そっか〜!」という快感、 ああいうのを「アハ体験」と言うのでしょうね。

「絶対に右の観点が正しい!」と思い込んでいたら、あるとき180度真逆の観点について、 「あっ、左の観点から世界を観ることもできた!」と気づくときが、何度も訪れます。 目から鱗がはらりと落ちて、自分が持っていた「思い込み=執着」に気づく瞬間ですね。 これぞ、「異なる観点集め = 如来意識、源意識に至る道」だなあと思います。 あらゆる観点(色)を全て集められたら、打ち消しあって無色透明になるでしょうか? だからこそ、「空」や「無」といった観点も生まれたのでしょうね。

対極の観点から見た世界像を「体感」していない間は、その観点を持っている人物について、 「バカだ」「無知だ」「無明だ」などと思うことがあるかもしれません。 しかし、自分自身がその対極の観点の「体感」をも得た暁には、 その「無明だ」と感じていた相手こそが、「無明のふりをしてくれた如来」だったと気づきます。 新たな観点をプレゼントするために、矛盾と混乱をプレゼントしに駆けつけてくれた、 無から派遣された幻想の役者さん、と言ってもいいかもしれません(笑)

代表的なところでは、このような「観点論争」もしくは「観点の極性」を見かけます。
自由意志はある VS 自由意志はない
私はいない VS 私はいる(在る)
運命は決まっていて変更できない VS 運命は決まっていない
人生のシナリオはすべて決まっている VS 人生のシナリオは決まっていない
人生の分岐で自由に選択できる VS 人生の分岐で自由に選択できない
パラレルワールドは存在する VS パラレルワールドは存在しない
思考は現実化する VS 思考は現実化しない
人殺しは悪ではない VS 人殺しは悪だ

「人を殺してはダメに決まっているだろう!」という観点を握りしめて生きている間は、 「人殺しは悪ではない」という考え方など、到底認められないし、 何を言っているのやらまったく理解不能で、暴力的だと感じることもあるでしょうね。 「そんなことを言うやつは頭がおかしい」と思っても無理はないと思います。 この「殺人すらも悪ではなかった」と、はらりと鱗が落ちて、 世界の見え方が180度転換する地帯が、 「中道」「中観」「ニュートラルポイント」 などとしても語られる地帯と言えるかと。

これらの対極の観点について私が言えることは、 自分が起きていて(=目を覚ましていて or この世界に生きていて)、 これらの観点(意見)を観測しているとき、 それらの観点はすべて存在している(観測されている) ということと、 自分が完全に熟睡して夢も見ておらず、意識が「無」の状態のときは、 どちらの観点も観測されておらず、故に「存在している」と語ることができない ということです。

また、どちらの観点が正しいのかを実証する術は、存在していないと言えます。 科学的な手段や話法で実証するとしても、科学は常に新しい理論の登場によって、 世界観が上書きされ180度でも転換するものですから。 (天動説から地動説のように、ダーウィンの進化論のように)

よしんば、科学分野によってなんらかの確からしい論文が提出されたところで、 その科学自体を「幻想である」と定義する哲学(空論など)を人類が持っている以上、 「幻想のモノサシで幻想を計測することはできない」という反論が存在し続けます。
※参考記事 『「悟り」は理論物理学と同じような話法を使っているなあという話』 新緑めぐる,2022年9月23日

そして、それぞれの対極する観点は、それぞれに、 個々人の「体感的理解」を通じて、 「自分は自分の人生にこの観点を採用する」と強く思い込み、 その採用した「色メガネ」を通してこの世界を観る、ということは可能です。 例えばそのときには、 「自由意志があるとしか思えない」「思考は現実化するとしか思えない」 「願望は実現するとしか思えない」などなどといった体験をします。 しかし、出来事としては同じ「願った通り素敵なモノが手に入った」という体験であっても、 「思考が現実化した!」と思う人もいれば、 「私ってラッキー」「努力によって手に入れた」 「願ったものと少し違うけど現実化したと言える」「プレゼントされた、キモッ」 「これはまだ本当の目的の過程に過ぎない」「べつに興味ない」 「諸行無常、どうせ消える」「ただそれが今現れているだけ」 などなど、無数の観点の異なりによって、体験の質や内容が変化します。

自分の人生を例に、シンプルに書いてみます。 私は物心ついてから40年近くの間は 「私はいる」「自由意志はある」「運命は決まっていない」「選択できる」 という観点を採用し、その観点から見た人生を体験し、世界を観測していました。

しかし、人生42年目あたりからは、 「私はいないともいえる」「自由意志はない」「運命は決まっている」「選択してる気がするだけ」 といった観点を採用し、その観点から見た世界を体験中です。 つまり「観照されている状態が、ただ現れている」という感覚の色メガネを採用しています。

自我が起動している以上、自我は色メガネをつけた状態でしか世界を観測できません。 完全に色メガネのない状態で観測するのは、自我の機能ではありません。 ただただなにもせず観照だけをするのは、真我の機能です。

と、まあ、なんとなくつれつれ考えちゃったので、メモです(笑)

—2022.11.23 新緑めぐる




もどる