クソまみれ理論Covered-with-shit theory |
いちおう、このワードを完全一致検索で 「クソまみれ理論」「くそまみれ理論」「糞まみれ理論」 と、各種ググってみたのですが検索には掛かりませんでした。 どこかで使われていると思ったのに 意外な結果です。 1件はヒットしましたが、 掲示板における不毛な議論の1レスで書かれていたのみで、 その概念もここで触れる「クソまみれ理論」とは異なりました。 もしかして この理論を最初に発見したのは自分なのでは? …と、くだらない事を考えたので このページがあります。
クソまみれ理論と同じ事を示す概念は、
どこかで誰かしらが言及しているはずです。
しかし、その道に通じる方々、または世間一般の人達が、
これら一連の現象をどう言い表しているのか、
ちょっとわかりません。
私は大学を卒業していませんし、
得意分野は理系なので人文学や哲学用語に疎いですが、勉強は好きです。
学問とは広大な世界ですから、きっと偉大な先達
さておき、この「クソまみれ」という響きが、
なかなかにキャッチーで先鋭的な語感を伴
そもそも、この理論を定義するきっかけは偶発的でした。 とあるWebページへ掲載した動画に対して 概要文を書いていた時のことです。 雑多な話題に触れながら文章はどんどんと長くなってゆき、 要点をまとめてさっさと終わらせたいのに いつまでも終わらず、 次々とテーマは移り変わり、そこからまた別のトピックへと飛び火。 ついには、自分が今まさに直面しているこれら一連の現象と、 それまで触れたテーマやトピックの根底にも同時に流れていた ある一つの法則を発見しました。 その後のテーマやページ全体の文章をまとめる為、 この概念を使わざるを得なくなり、遂に言葉が飛び出たのです。
私はコレを “クソまみれ理論” と名付けた。 I named this the “Covered-with-shit theory”.
この概念を説明したくて文章を書いていたわけではなく、 そうするしかなかったので命名したに過ぎません。
この理論は、クソ地獄から抜け出す目的で使われるべきです。
決してクソな人やクソな場所、クソなサービス、現象などに向かって
「これはクソまみれ理論のケーススタディーですね」とか、
掲示板で相手を煽る際に「はようクソまみれになろうぜ」とか、
「クソまみれ理論の講習所はここですか?」というように、
クソまみれへなるために使われる事ほどの悲劇はありません。
場の空気を面白くするためのユーモアとか、
自分や相手を楽しませたり、皆を笑わせるために
ギャグやジョークとしての使用なら問題はないでしょう。
しかし、どこからともなく沸き起こった口論、レスバトル。
論点のはっきりしない議論、建設的ではない話し合い。
とりとめのない水掛け論といった場で、あなたが
「自分の優位性を誇示したい」
「相手にレッテルを貼ってバカにしてやりたい」
「こんな事も知らないオマエは低能、クソ」
という、悪意や敵愾心、己の慢心、虚栄心、
卑しい感情を肥大させる邪悪な意図と共に この言葉を用
初めてこの理論が提唱された『クモ恐怖症 克服』より引用します。
問題が一向に終わらぬ地獄の拡大再生産。 解決しようとすればするほど問題が起き、 傷口を治そうとすればするほど広がる この一連のメカニズム。
私はコレを “クソまみれ理論” と名付けた。
かなり恐ろしい現象です。
ですが、日常の至
どうかあなたがクソ地獄から抜けられますように。 クソと無縁な平穏の境地の住人たらんことを。
2021.09.30
真ん中のウ○コを中心に文字と矢印で描かれたこの図は、矢印をたどっていくと、やがてクソへと突入し、ぐるぐる回りながら最初の「C」へと戻ってしまう。
延々と同じ場所を回り続けた挙げ句、元の位置へと帰り、矢印に沿っていけば再びウン○へたどり着く為、全てがクソに覆われている。逃げ道はない。
ようするに地獄であり、苦しみであり、無意味である。
イラストや文字を無視して矢印だけで見ると、 頭の中の思考過程、思索や考察の道筋、 概念の誕生過程を表した図とも解釈できる。 矢印が頂上へと収束していく様は 考えを煮詰めて結論へ向かうそれであり、 とぐろを巻きながら回転する様は思考過程を示す。
様々な概念や知識を用いて考えがグルグルと進み、
頭頂部へ至れば何かしら哲学的帰結や解答に達するのだが、
その結果、新しい「概念」や「知識」が再生成されるならば
再びこの循環を漕ぎ出す力や因子として作用するか、
それらを促す潜在力
「知識や概念」を材料として煮詰めた末の精製物が 元の材料と同じ「知識や概念」という この空虚さに 思索や考察の無意味さ、思想や哲学の脆弱性が見いだせる。
※「クソまみれ理論」も同じ過程を経て生まれた単
2022.04.08 追伸
概念や知識に依
自身へ言い聞かせる信念や戒め、心情的な決めつけや信仰、
イデオロギーや社会的な道徳規範、ドグマという外部要因に依らず、
揺るがない「体感」や「実感」としてわかっているならば「覚
そして、このクソ地獄より脱出する事を「解脱」と呼び、 これら苦しみと無縁の状態を「ニルヴァーナ」と呼ぶ。
この事をよく理解した上で己の意思と営為により 解脱を目指す実践や行動を「修行」と呼ぶ。
修行バンザイ、実践バンザイ。 クソと無縁な平穏の境地… ニルヴァーナ万歳!
Sādhu×3
初版 2021.09.30
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