2023.01.27 07:43

月末報告120 中括


2023.01.30現在の「星野かなたのホームページ」 2023.01.30現在の「星野かなたのホームページ」

月末報告120にて「殺処分廃止計画 活動日誌」は いったん総括し、
この日誌の成功点や反省点を洗い出し、総まとめをする予定でした。

そして「おまえら献血いこうぜ!(以下 おま献)」のサイトと同じように、ここも独立したコンテンツとして単立(ユニット)化し、更新の終了宣言も行う手筈でしたが、他のコンテンツと多数連動しているので、ここだけを性急にユニット化するには無理がありました。

そもそも、活動日誌より先に やるべきことができてしまったのです。 募金ページの企画はすでに終了しているのに、未だトップページに募金のお願いがあってはまずいので、先にそっちをなんとかしなければなりません。

これは先日、募金ページの上部に書いた お知らせです。 ※お知らせ —2023.01.24

当ホームページのメインコンテンツ「殺処分廃止計画」は、
2011年にウェブサイトのリニューアルと共に本格スタートし、
この募金ページは10年以上、欠かさず更新し続けてきたものです。
(サイト自体は2009年からあるので 活動は13年続いてます)

Windowsのメモ帳へHTMLを打ち込んで作り上げ、
個人で十年以上も運用してきた当サイトですが、
いまや あちこちで不具合が発生しています。

動画投稿サイト、SNS、クラウドファンディングの台頭。
スマートフォンの爆発的普及と、各種アプリの猛威によって、
今やインターネットのやり取りといえば、日がな一日 スマホで
いいね!やシェア、リツイートを押すだけの形態へ様変りしました。

個人サイトによる訴求力や影響力は大きく低下し、
ここも運営方針や戦略に見直しや転換が迫られています。
(活動方針や理念に関しては全く変わりません。)

なので、役に立っていないコンテンツはさっさと片付け、
惰性で続いているような企画はとっとと切り上げます。
(寄付が来ないこのページや 誰も読まない活動日誌等)

よって、今まで積み立て続けた募金の全ては、
最も殺処分の廃止へ貢献した(するであろう)法人と個人へ、
それぞれ寄付することに決定し、去年の末に送金を終えました。

アニマルライツセンターへ100万円を寄付
https://hosino-kanata.com/katudou/nissi/20221228/

瓜生哲也さんを表彰しました。(賞金20万 進呈)
https://hosino-kanata.com/katudou/nissi/20221230/

このページは記念碑として当時に近い状態で保存し、
文章や送信ボタンなども そのままにして展示してます。

入力フォームやボタンは作動しません。

こうして募金ページを記念碑化し、更新の終了宣言を行ったところ、またまた問題が発生。 ダウンロードショップの売上は、この募金ページへ積み立てる仕組みになっていますから、募金ページを止める場合は、そっちも同じように なんとかしなくてはなりません。

するとどうでしょう、またしても問題発生です。 ダウンロードショップを止めれば、殺処分廃止計画の計画表にある「ステップ3 資金集め」の内容も変更する必要が生じます。 そこには「※お知らせ※ 現在ダウンロードショップで作品や本やコンテンツを公開していただける方を募集中です。」と書いてあるからです。

しかも、そのページの「- 現在の活動 -」には

  1. チャリティーオークション
  2. ホームページでの作品やコンテンツ販売
  3. 毎月5000円以上 活動費の積み立て

とあります。 もはや 1. 2. 3. 全て問題だらけ!

なので、この活動日誌を総括するためには、殺処分廃止計画に関する他のすべても同時多発的にまとめる必要があります。

これほど複雑に絡み合った各コンテンツを一挙にまとめるにはどうしたらよいか? そもそもコンテンツが増えすぎて混沌(カオス)になったので、ウェブサイトをまとめあげて「総括」する必要が出てきたわけです。 現在、その総括を実現するために、各コンテンツを単立(ユニット)化し、それぞれ独立させようと頑張ってます。 ユニット化の第一弾として おま献 のまとめは無事に完了したので、その成功例をモデルケースに、この日誌も なんとかなると思っていましたが、どうやら殺処分廃止計画に関するものは 一気にまとめる必要がありそうです。

「活動日誌の総括」はいったん諦め、とりあえず「中括」をします。 せっかくですから 総括の説明も含めてウィキペディアより引用。

総括(そうかつ)とは、物事を一つにまとめ、締めくくること。 事業の途中で行う場合、中間総括(中括)と呼ぶ。 革新政党、労働組合、学生組織などが、一つの闘争を行った段階あるいは大会の時期などに、それまでの活動をしめくくる意味で成果や欠点を明確にさせること。一種の左翼用語で、運動に欠かせないものとなっている。

  • 上記のように左翼用語と思われがちだが、実際には保守、中道政党や企業、団体などでも活動を締め括り評価や改善点を明らかにする行為を指す用語として定着している。より現代風に言えばPDCAサイクルのCとAに該当する部分と言える。
  • 本来は上記の意味だが、1971年から1972年の連合赤軍の山岳ベース事件では「死の制裁」として使用された。

Wikipedia 「総括」 https://ja.wikipedia.org/wiki/総括



それでは、中括をはじめます。 まずは、これまでの要約。

総括の準備 その1

  • 場当たり的な活動方針のせいでサイトのコンテンツが混沌(カオス)まとめよう
  • このウェブサイトの方向性や殺処分廃止計画の方針をわかりやすくして新たに定めよう。
  • これまでの経緯や活動成果を説明し、今後の方針や何をやっていくか表明する物を作ろう。

総括の準備 その2

  • 膨大なHTMLファイルをどういう形式でアーカイブ(保管)するか事細かに決めていこう。
  • 何世代も1次資料として引用されるような立派なWebページを作ろう。
  • いつでもどこからでもアクセスできて誰でも使えるように統一したルールや形式も考えよう。
  • Internet Archive を支援せよ!
  • 後世の人類にバカ扱いされるか尊敬されるかは この瞬間の我々次第。
  • Wikipediaや健全なインターネットは超大事。そして殺処分の廃止こそ重大な遺産

総括の準備 その3

  • 内容(コンテンツ)が一番重要!
  • 千年先まで残るウェブページの資質は"良い"コンテンツであること。
  • 良いコンテンツとは、何ヵ国語に翻訳されてどんな世代や地域へ出回ろうと全く問題のない内容。

複雑に絡み合ったコンテンツ群については、 今さら細部を直して更新するというのは現実的ではありません

殺処分廃止計画の歴史は、まずはじめにという私の宣誓/誓願から全てが始まってます。 その「殺処分をなくして見せる」という決意からスタートし、自分にできる事を模索していくために殺処分廃止計画の計画表が作られました。 それから募金のお願いチャリティーオークションダウンロードショップ(当時はデジタルコンテンツ売り場)と、この活動日誌が作られていきます。 やがて一般人がホストに挑戦してみる日記おま献なども始まり、本格的にコンテンツの量産体制が動き出しました。

更新履歴の初めを見てみると、このサイトがいかに場当たり的に作られていったのかが垣間見えます。
星野かなたのホームページの歴史
自分でも正確な日付がわからず 2011年以前は??ばかり…

はじめにに書かれている私の宣誓/誓願と、「殺処分を無くそうと決意した理由」は、当時の正直な気持ちをそのまま書いたもので、今も変わりはありません。 しかし、あらためて読んでみると、あのページは色々と問題だらけです。 改行の使い方は変で読みづらいし、いきなり自殺の経験を語り始めるのも、ちょっとなぁ…と思います(おかげで僕は炭酸ガスで殺される犬猫の苦しみがよくわかる((共感してしまう))のですが)。 それと、追伸に書かれている「私は慈悲と博愛に溢れた人格者でも、聖人君子でもありません」は大問題です。 今や慈悲と博愛に溢れた人格者だし、聖人君子と言っても過言ではないので一刻も早く訂正すべきですが、一度書いた事を消すのはポリシーに反しますし 文言を削除するわけにはいきません。 かといって追伸の追伸を入れて「今は聖人君子です」も、それはそれで文章構成がめちゃくちゃになります。

よって、今現在(いとな)まれている殺処分廃止計画に関するコンテンツは、全て記念碑化するのが妥当と結論しました。 (さかのぼ)って細かい部分を修正したりは一切せず、誤字脱字も含め そのまま保存します。 付け加えるとしても小さく注釈を入れる程度にとどめ、当時の形はなるべく残す事にしました。 ですが、歴史検証にも耐えうる資料価値のあるものにしたいので、外部サイトに言及してリンクを貼っていたり動画を引っ張っているページで視聴不能になっている箇所は修正予定。 「総括の準備 その3」でも触れましたが、このサイトは千年先にまで残るような良いコンテンツにしたいと考えてます。

全てを記念碑化するに当たり、「殺処分廃止計画 活動記念館」という新しいページを作り、 はじめに 殺処分廃止計画 募金のお願い 活動日誌チャリティーオークション ダウンロードショップ の6つは そこへ統合します。 活動記念館の主なコンセプトは… 後世の人々へ、この時代 この国で行われた大量虐殺(犯罪)を告発する です。

私は保健所や動物愛護センターで行われている犬猫の殺処分はジェノサイドだと思っています。 れっきとした国家ぐるみの組織犯罪として、後世の人々や各国の有識者から轟々の非難を浴びるべき恥部です。 処分機のボタンを押す保健所の職員はアウシュヴィッツ収容所のナチス親衛隊みたいなものですし、殺されると知りつつ犬猫を連れていく人はアイヒマンでしょう。 大多数の一般人は殺処分と無縁に過ごしてるとは思いますが、それでもテレビや新聞やネットのニュースで「殺処分」という単語くらい聞いたことはあると思います。 漠然と殺処分を知りつつも見て見ぬふりをする人たちは1940年代のドイツそのものです。 例えば水晶の夜という、ユダヤ人が何十人も殺されてシナゴーグや居住地が焼かれた事件がありましたが、あんなのは官民一体となった「見て見ぬふり」がない限り不可能です。


暴動中、ユダヤ人は殴られたり、辱められたりした。運の悪い者はそのまま殴り殺された。少なくとも96人のユダヤ人が殺害されている。『我が闘争』を朗読させられたり、『ホルスト・ヴェッセルの歌』を暗誦できるまで歌わされた者、果ては強姦されたユダヤ人女性もいた。 大多数の市民の反応は名目上の目的よりも、むしろその迫害ややり方に対して沈黙した否認という態度が示された。

(中略)

ハイドリヒや保安警察ゲシュタポ局局長ハインリヒ・ミュラーの電報での「邪魔をしないように」との命令に基づき、警察は暴動を全く取り締まらなかった。 さらに消防隊も炎上するシナゴーグを見ているだけであり、消火活動をするのは非ユダヤ人の建物に延焼する恐れがある時だけだった。 その最中でも、警察は多数の自殺や強姦を記録していた。

割られて路上に散らばったショーウィンドウの破片が月明かりに照らされて水晶のように輝いていたことから水晶の夜(クリスタルナハト)と呼ばれた。 実際にはガラス以外にも、殺害されたユダヤ人のおびただしい血や遺体、壊された建造物の瓦礫等で、現場は悲惨なものだったという。

Wikipedia 「水晶の夜」
https://ja.wikipedia.org/wiki/水晶の夜

保健所や愛護センターで引取りを待つ犬や猫がいるにも関わらず、日本では子犬や子猫を生体展示販売するペットショップというものが、未だに成立しています。 こんな恐ろしい現象が間近にあっても、「かわいい~」といって、ショーウィンドウを眺める者や買う客が後を絶たない世界が、今のこの国、この社会です。


YouTube: https://www.youtube.com/watch?v=Mn1zeJMT1mU&t=75s
殺処分のことを知ってもらおうと、そういった店を撮影し、キャプションを入れた動画をアップロードして問題提起しましたが、リアクションは賛否両論でした。 それらを見た人たちの反応やコメントもドキュメントや記録として残そうと考えています。 ナチスに熱狂していた人達だって、自分たちのやっていることが どういう結果になるかなんて想像せず、罪悪感だって微塵もなかった事でしょう。 私の時代の人達も、たいがいそんな連中ばかりです。その子犬や子猫がどこから来ているか?もし飼えなくなったら? と考えてる人は、果たしてどの程度いるのやら…。

そういえばYouTubeの概要欄には十年以上「犬や猫の生体販売をしているペットショップがありましたら動画を撮ってお送りください」と載せていましたが、1人を除き 誰も提供者は現れませんでした。 全国のペットショップの店ごとに、こういう字幕の入った動画がアップされたのなら、今年中にでも生体展示販売も殺処分も同時になくなりそうなムーブメントが起こせそうなものですが、ここまで無関心を極められたのでは、もう私一人では どうしようもありません。 チャンネル登録者は1400人しかいないし、動画の殆どは客寄せ用の普通な動画ばかりではありますが、それを差し引いても「殺処分の事など誰も気にしない」という現実がよくわかります。

下の引用は「ペット問題が日本ではジャーナリズムとして成立しない」という理由で、取材を引退した元ジャーナリストの告白です。

山下浩 さぽろぐ 前略 突然ではありますが、このたびジャーナリストの引退を決意いたしましたので、ここにご報告申し上げます。

メインサイトおよび当ブログ開設からまだ一年足らずではありますが、日々刻々と変化する政治経済や、流行りの原発問題・電力会社批判などとは違い、多くの国民生活に直接影響のない「ペット問題」が、日本ではジャーナリズムとして成立しないことを早々に思い知らされました。

その前提で、取材活動を私費で賄い続けることに意義を見出せなくなり、また、一人の社会人(納税義務者)としての自身の在り方を鑑み、さらには動物愛護界への失望感も相まって、活動を継続するのは困難という結論に至りました。

山下浩 2012年4月30日,さぽろぐブログ
http://yamashita.sapolog.com/e360104.html

先日、瓜生哲也さんへ20万円の賞金を進呈しましたが、もしも彼が辞退した場合は山下浩(やました ひろし)さんに送る予定でした。殺処分の生々しい虐殺を映像で記録し YouTubeへ上げてくださった素晴らしい方です。これらの動画を私財を投じて撮影して多くの人へ見れるようにした その功労、功績は計り知れません。きっと多くの人へ殺処分の残酷さが伝わったと思いますし、私もその一人です。 山下さんは活動家ではなく、あくまで「ジャーナリスト」として公平中立な姿勢をとり、その理念を貫き通していました。 一人の人間として ここに敬意と感謝の念を表します。本当にありがとうございました。

近頃、もっと教養を身につけるために、歴史の事や偉人の話などをよく調べているのですが、その影響で戦争やヨーロッパの話は特に勉強します。 NHKの「映像の世紀」という作品は、小さい頃に社会科の授業で見せられて非常に印象に残っているのですが、最近「新・映像の世紀」というものが出ている事を知りました。 さっそく一本見ましたが、相変わらず とても勉強になる作品で、「良く出来てるなぁ」と 再び感心しているところです。


YouTube: https://www.youtube.com/watch?v=Kda9jfhuJ_M

「いいや、あなた達は知っていた」
このフレーズ、すごいインパクト。

私も言ってやりたいですよ、これ!

殺処分や生体展示販売がなくなった何百年も先の世界を少し想像してみたのですが… その時代の人に「不要ペット回収車」や「ドリームボックス」の話を信じてもらえるでしょうか?  13年前に活動を始めたばかりの時期(殺処分数が年間17万5千頭の時代!)の私さえ「不要ペット回収車」には ぶったまげました。もはや どっちが畜生なのか わかったもんじゃありません。 ナチスもユダヤ人を効率よく殺すのに「ガストラック」作りましたからね。射殺だと兵士に精神的な負担がかかるので、ガス殺できる車が考案されたそうです。(ドリームボックスは二酸化炭素で殺すが、ガストラックは一酸化炭素らしい)

やはり殺処分は国家犯罪
食料として食べるわけでもない、愛玩用(つまり(かわい)がる(おもちゃ))として産ませたり増やしたりした動物に対する非人道的行為。しかも国民もグルになって黙認している大規模な虐殺。実は「ジェノサイド」という言葉は出来上がってまだ100年たっておらず、誕生の経緯も第二次大戦中にチャーチルが「われわれは名前の無い犯罪に直面している」と言ったBBCの放送演説がきっかけです。 なお、ジェノサイドの定義は「国家/民族/人種集団を計画的に破壊すること」なので、動物には適応不可。 よって、私は再び「名前の無い犯罪に直面している」と宣言しなくてはいけません。

そう考えると、新しく制作する「活動記念館」も意義深いものに感じられます。 長年書き続けた この日誌も、そこへ収まるのであればぴったりでしょう。 不要ペット回収車の写真も、ペットショップの動画もありますから。 飼えなくなった犬・ねこの引取り車Q「お金は」 ペット回収業者「かからないです 無料です」

総括が済んでサイトがリニューアルされると、
現在のトップページとはガラリと様子が変わります。

実は新しいトップページは ほぼ完成しており、あとはコンテンツのユニット化が終わりさえすれば、それらをトップページへ はめ込むだけ。 隠しページに溜め込んだコンテンツ、分家のドメイン(hosikana.com)に分けた作品、外部サイトで書き散らかした文章や動画も含め、一覧で見れるデザインです。 もう二度とサイトが混沌(カオス)とならぬように フォルダの仕分けルール、ファイルの名付け方、外部サイトとの関わり方まで 細かに決めてあります。 それらは「総括の準備 その3」の後半にまとめてますが、細かいところは書く暇がなかったので、現時点ではレジュメのみ。

「その3」に書き記した「内容(コンテンツ)が一番重要!」は、大切なポイントを抑えた秀逸な章です。 その文章のキーワードでもある「健全なインターネット」と「良いコンテンツ」を軸に、私は今後も活動します。 殺処分問題の啓発にせよ、自分の趣味的な作品づくりやコンテンツ制作にせよ、「健全なネット環境」なくして、これらは実行不能です。 ネットなど無くとも生きてはいけるし、活動も出来ますが、小学生の頃からITに親しみ、高校でも情報ビジネス科を選択してきた身としては、このInternet(フィールド)で戦うことが最善であり、最前戦なのは間違いありません。

リニューアルが完了し、ウェブサイトが生まれ変わったら、次はアーカイブを行う手筈です。 このサイト全てのHTML、テキスト、画像、音声、動画、ひとつのURLも漏らさず Wayback Machine に収集させ、私が死のうとサイト閉鎖しようと、誰でも閲覧できるように整えます。 今は有料のレンタルサーバーへ頼っている状況ですが、Blogger や Google Sites なども併用してバックアップすれば、広告なしで恒久的に見れるWebページも作れるかもしれません。 グーグルは15GBの容量までは無料提供しているので、テキストがメインの私のサイトであれば 8割以上は残せそうです。

Google様と言えど単なる営利企業なので、BloggerだろうとYouTubeだろうと サービスはいつ終了するかはわかりません。 特に最近はYouTubeのクソッタレは酷くなるばかりで、ここへいくら動画を上げても、すぐ見れなくなるでしょう。 上にある「新・映像の世紀」の1シーンを上げてみましたが、アップして5秒で規制かかりましたからね。
え?
たった3分の動画でさえ、バックで流れてる「パリは燃えているか♪」がなんたら~、著作権がどうたら~、とほざきやがります。 コンビニのイートインスペースでジュース飲んでるだけでも店内の音楽に反応して難癖つけてくるし、ハエトリグモがアップで映っただけで「暴力的で生々しいコンテンツ」とか言って、事前通告なしの削除です。

それに比べ、Internet Archive は、 新・映像の世紀は全て見れます。 社会科の授業で昔みた映像の世紀まで視聴でき、 ダウンロードさえ可能です。(しかも 全話一括) 「健全なインターネット」とは 本来こういうものです。 YouTubeの「お住いの地域では視聴できません」など言語道断! そのうち「アーリア人のみ視聴できます」も出てくるんじゃない?

だいいち、教育の現場で使われるようなコンテンツが、私企業だの、(いち)出版社に私有されるなんて、どう考えたっておかしい。 予習と復習はどうすりゃいいのさ?そのつどAmazonでDVDポチって置き配してもらうか、Netflixに課金しろってか?

こんな愚痴を誰も見ないネットの場末の個人サイトの片隅で書き散らすのも、 「健全なインターネット」ではありません(暗いしキモいです)。 かと言って、大勢の人が のべつまくなく(わめ)き散らしてるツイッ○ーみたいな所で、 「オレの話を聞けぇ」と がなるのも不健全です(うざいし嫌われます)。

話がそれました。
以上の点をおさえて見えてくる結論は、インターネットが健全であろうとなかろうと、やるべきことは「良いコンテンツ」を作ることに尽きるということです。 著作権の問題があろうがなかろうが、コンテンツを流通させる場所(プラットフォーム)がクソであろうとなかろうと、結局は「良いもの」が後世へ残ります。 この点は「その3」でも触れているので省略しますが、ともかく良いと思ったものは、細かいことを気にせず どんどんと保存し、次々と記録してしまえばいいのです。 そうしたくなるような素敵な文章を書く事や おもしろいコンテンツの制作に専念するほうが、コントロール不能な外部環境へ愚痴るより ずっと明るく生産的になります。 愛に溢れた素晴らしい品々やインスピレーションに満ちた作品を(つく)り、優しい心を奮い起こさせて人々を幸せな気持ちへしましょう。 高潔な想い、徳性や善意を高揚させ、慈しみや博愛の精神を分かち合えるような良品をネットにばらまきましょう。 そうすりゃバタフライ効果とか正のフィードバックで、少しはインターネットも健全へ近づくってもんです。 (けれど 人様のコンテンツを検索流入やPV数稼ぎの捨て駒、広告クリックの踏み台とか課金の誘導へと使うような悪党の経済領域(プラットフォーム)からは逃げよう)

YouTubeがダメなら自サイトへ埋め込めばいいし、Internet Archive がおしまいだと思ったら、別のアーカイブをすればよいだけの話です。 極論、ネットそのものを見限っても、紙に印刷して製本するなり、タイムカプセルに入れて埋めるなり、石碑でも立てりゃいいのです。

再び話をそらして、裏技的なアーカイブ方法も ちらっと書いてみましょう。
やってはいけませんが、人を殺した後に犯行声明にして新聞社へ送っても後世には残ります(酒鬼薔薇)。 自己責任ですが、文豪になって遺書を残し自殺しても後世には刻まれます(芥川)。 両者の文章は今のところ、どちらも原文ですぐに読めるようです。

人殺しも自殺もめんどくさそうだし 1ミリもやる気はないですが、こういう事例をたくさん調べて教養を深めることは大好きです。 教養があると面白い話がいくらでも書けるようになります。 読んだ人の頭も良くなるので、いまのところは教養バンザイ路線を突き進みます。

教養になるものとは、普遍的価値が高く、流行や一過性のトレンドと違い、人格の向上や精神的成熟を(うなが)す血肉になるようなものです。 それらは、時代を超えて他人と共有できる歴史的知識や経験則であったり、確かな証拠や理論に基づく哲学であったり、幾人もの賢者に鍛えられ 長い年月を生き残ってきた思想だったりもします。

「その3」でまとめた「良いコンテンツ論」と、これら教養バンザイ路線の2つによる厳しい査定を通し、これからは作品を大きく3つに分類します。 良いものは「表層」、微妙なものは「中層」、人様に見せられないようなものは「深層」です。 これまでは気が向いたときに新しいコンテンツを作っては隠しページへ放り込み、作っては放り込みを繰り返してきましたが、今後は3つの分類でキッチリと仕分け 優先順位もはっきりさせます。

これに関しては未公開の新しいトップページに書いてあるので、引用します。


星野かなた式 3つの分類法

そこで2回目の正式リニューアル「総括」を行い、サイトにある全ての品目をふるいにかけてまとめ上げ、ホームページを表層中層深層3つのステージへ分割。 一番上の表層には(ため)になる物、人の役に立つコンテンツ、時代や歴史が変わろうと価値の落ちない(落ちづらい)作品を配置。中層には内容的に微妙な物、読んでも教養にならない(なりづらい)物や、専門的なジャンルを配置。深層に至っては、ほぼ役に立たない(と思われる)ゴミや、前衛的で理解の難しい代物(しろもの)、管理人の黒歴史、危険な作品が封印されてます。

4つ目のステージ「最深部」もありますが、ここはアップロードする前の物(プロトタイプ)や材料(素材データ)、何のために書いたか忘れたメモや ボツになった文章や原稿が圧縮してあるだけです。誰にも見れません。 将来的に必要になるかもしれない資料や 使うかどうかさえわからない拾い物が私物とごちゃまぜで、私以外(私にさえ)役にも立たないデータの塊です。

つまり表層ほどコンテンツの価値が高く有益で、最深部に近いほどゴミやガラクタとなります。

—未公開ページ「星野かなたのホームページ へようこそ」
https://???.?????.???/


以上が「星野かなたのホームページ」の今後の運営方針です。 なお予定通り、月末報告はこの120にて最後にします。 星野さん、お疲れさまでした。

これにて 中間総括を終わりにします。

初版 2023.01.31





追伸

2023.02.07

上の文章は「活動家として」の視点で書かれた文章です。
ひとつ言及しておきたいのは、これは一つの目線から(えが)かれたものであり、中間総括というシチュエーションにおいての視座(切り口)から描写した という点です。 つまりは“プロパガンダとしての側面が多分に含まれ”ています。 プロパガンダとは「〔主義・思想などの〕宣伝」という意味であり、デマやウソと言った概念とは異なります。 もちろん上に書いたものに関しては、私の知る限りの事実を書いており、虚偽や誇張は含まれていません。

しかし、自身で読み返してみても、「この表現は大げさだなぁ」とか、「ナチの親衛隊やアイヒマンは言いすぎだろ」と思うくらい、表現は強めています。 ですが、あえて強い表現で印象に残るようにしており、「活動記念館の意義」をわかりやすく伝えるには、これが適切です。

自分で読み直しても「言い過ぎ」と思ったりもするのに、あえて「誇張ではない」と、(ただ)し書きするのはなぜでしょうか? そうすることにより、問題に取り組む姿勢やスタンス、現象に対する解釈やアプローチ、方法論が浮かび上がってきます。

私は13年以上、この問題へ活動家として取り組んできましたが、様々な場所へ(おもむ)き、色々な人と会って話を聞いたり自分で調べたりするうちに、もう一つの視点も持つようになりました。 その視点は もともと持ち合わせていましたが、最近は特に「意識するようになった」というほうが適切かもしれません。 なにせ 千年先まで残るようなウェブページを作ろうと、気合を入れてドキュメント制作しているので 必然といえば必然でしょう。 それは「ジャーナリズム」としての視点です。 ジャーナリズムというと、日本では「報道」や「社説」みたいなイメージが(ともな)うかもしれませんが、 ここでは社会的な役割としてジャーナリズムへ期待される「公共性」や「客観性」のことだと思ってください。

活動家としてではなくジャーナリズムの視点からみると上の文章は偏っていますが、嘘を書いているか?と言われると 嘘ではありません。 話を盛っているか?と言われると 誇張ではなく事実です。 実際に処分機のボタンを押して虐殺を実行し、粛々(しゅくしゅく)と殺生を行う職員は存在しますし、その施設へ連れて行く人々も居ます。 それをナチの親衛隊と言おうとアイヒマンと言おうと表現者の自由です。 むしろ 共通点や特徴を押さえた良い表現だとさえ言えます。

また繰り返しますが、あくまでもそれは「活動家としての一つの目線」「中間総括においての視座」「"活動記念館の意義"を説明する切り口」としてです。 そして後世の人間に大量虐殺(犯罪)を告発するという目的を考えると、やはり一番適切な例えは ナチスの親衛隊やアイヒマン以外は考えられません。 “犬猫の殺処分を日本から無くす”という目的を実現するには、大勢の人々に殺処分を知ってもらう必要があります。 それだけでは不十分で、「では どうすれば殺処分がなくなるのか?なくせるのか?」と、踏み込んでもらうことも重要です。 それら殺処分増加の原因であるペットショップや生体展示販売の邪悪さも、ポイントをしっかり理解してもらわなければ、啓発や活動になりません。 そういった観点では、上の文章は私の知っている限りの事実や思ったことをそのまま書いた真面目なものであり、必要なことを必要なだけ綴った情報です。


では、それらを踏まえて ここからはひとつ、ジャーナリズム的な視点から書こう。

まず保健所の職員さんなのだけれど、彼らはそんなに悪い人たちじゃない。 民間のNPOや団体と提携し、なんとか里親として犬や猫を引き取ってもらおうと頑張る姿は もちろん見かけた。 特に印象的だったのが「自分の子どもに職業を知られるのが嫌だ」「息子や娘に胸を張って仕事の事を話せるようになりたい」という声だった。 どこかの記事で読んだ記憶があるが、そういった思いを胸に、なるべく処分数を減らそうと里親募集へ励んだり、捨てに来る人たちに対して受け取り拒否ができるような体制にしていったのだ。

全国の犬・猫の殺処分数の推移 (環境省 2021.04.01~2022.03.31時点のデータ)

上の表は環境省が出している殺処分数の情報であるが、このグイグイと右肩下がりする嬉しいグラフが なにゆえ実現したか?と問われたのなら、その一つは「彼らの熱心な取り組みが(みの)り 持ち込まれる動物は減って引き取られる動物が増えたから」と、素直に言える。 もちろん 民間でシェルターや里親募集のネットワークを作り頑張った人達の貢献もでかい。 ともかく感じられたのは「自分の職業に対する負い目」という気持ちだった。 彼らだって人間だ、むやみやたらと動物を殺すのは嫌だろうし、なんとか()めようとするのは自然だと思う。

保健所の職員さんの中にも良い人はいるし、その人らが活躍する気配は確かに感じた。 誰も何もせず、ただ粛々と業務をこなし、ためらいもせず処分機のボタンを押すだけのクズばかりだった というわけではない。

ナチス親衛隊でも、ノーベル文学賞のギュンター・グラスもいれば、人体実験の鬼として知られるヨーゼフ・メンゲレまでいる。 アイヒマンだって結婚記念日には妻へ贈る花束を買うような人間的側面は持っているし、アウシュビッツ所長のルドルフ・ヘースも そこは同じである。


ところで、元ジャーナリストである山下浩さんの引退宣言にさらには動物愛護界への失望感も相まって、活動を継続するのは困難という結論に至りましたとある。 保健所や愛護センター界の活躍はあったと思われる山下さんの動画も愛媛県動物愛護センターの協力で撮れたものだ)が、私のような活動家(動物愛護界側)はどうだっただろうか?

実を言うと、最近まで自分のやっている事を動物愛護活動と勘違いしていた(実際は政治活動だった)ので、愛護側と言って良いのかどうかもわからないし、探しはしたものの結局どこの団体にも所属しなかった。 本格的に活動をし始め 手探りで情報を調べている時に山下さんも引退をしてしまい、当時の愛護界隈がどのようなものだったかは よく知らない。 けれど 失望感を感じる要素が全く無いかといえば、いくらか思い当たる

それに関しては書くと長くなるので割愛するが、
なんとなくの印象論で言えば…

人間関係とか、内ゲバめんどくさそう

別にこれは愛護界隈だとか、なんちゃら界隈だとか、右翼、左翼、ノンポリとか関係なく 日本人全般に言えるのかもしれない。 ともかくコミュニケーションが下手くそと言うか、意思疎通不能というか、議論や話し合いのことを「口喧嘩」とさえ勘違いしているふしがあるような…。 団体に所属しなかったとは言え、僕もARCには出入りしてたし、他の活動家の人と食事したり交流したり、デモや勉強会にはよく行っていた。 そのような場の雰囲気では、みんな親切で特になにか問題があるとは感じはしなかったが、たぶんネット上(匿名)だと、問題が吹き出すのだろうと思われる。

じつは、山下さんが引退宣言をしたときの記事に、ささやかな(ねぎら)いと、私の熱い気持ちを綴ったコメントを投稿してしまったのだが、匿名の第三者から半日ちょっとで こんな返信が来た。

↑のコメントを投稿した星野かなたさんへ。 山下さんとどういう関係かは存じ上げませんが 見かねてコメントすることにしました。 あなたは本当に山下さんに感謝し、尊敬しているのですか。 名前を間違うなんて、これ以上失礼なことはないと思いますけれど。 山下さんへの労いのコメントというより、ご自身の売名に受けとれます。 殺処分をどうにかしたいと思われるのは結構なことですが ここは山下さんのブログであって、あなたの自己愛や酔った発言は あなたのサイトで思う存分どうぞ。こんな長いだけで意味不明の、 読点・句読点の使い方もわからない人が書いた文章、読み手は苦痛です。 それからあなたのサイト、 寄付募集のページに現金の写真をそのまま載せてるようですが コピーやスキャンといっしょで通貨及証券模造取締法違反ですから。 そもそもあんなことしても意味がないし、 クリックしたら実物より拡大される画像、偽造幇助になりますよ。 動物愛護を語る前に、社会人としての常識を勉強し直したらどうですか。

2012-05-02 01:30 vivさんの投稿 http://yamashita.sapolog.com/e360104.html#comments


ヴォー コエー
(うぉー (こえ)え~)

もちろん、当時の僕はじっさい読点(とうてん)()(てん)の使い方もわからないクソバカで改行の使い方も変で、労いの言葉からの自分語りをするイラつくガキでしたから、今となってこれは大変ありがたいごもっともな お言葉です。 もっと早くに句読(くとう)点の使い方を知っておくべきだったのは言うまでもありません。

とりあえず性格が良くて素直だった私は一言も反論せず速攻で謝罪し、その場で「気をつけたいと思います」と言って()びました。とか言いつつ 10年も句読点を間違え続けちゃった(ハート)

けれど、その後もコメント欄はこんな感じ…


ちょっとコメントを書いただけで、一面識も無い人にいきなり、常識云々から(まあ、これは今後お勉強して頂くとして)、「売名」「自己愛」「酔った発言」とまで決め付けられ、書かれなければならないとしたら、それを当たり前だとするなら、そちらの方がよほど恐いですよ。

— 2012-05-02 14:37 imumさん


こういうコメントの泥試合的な応酬って、 動物愛護界の人はしょっちゅうやりますよね。
ものすごく攻撃的だし。

– 2012-05-02 17:33 泥仕合さん

私の手元には「人間万事塞翁が馬 / 山下 浩」のWebサイトのデータがあるのですが、引退宣言のあった日付までしか残っておらず、コメントも全ては収録されておりません。 他にデータが載ってる場所がないかどうか、当時のURL"yamashita.sapolog.com/e360104"で検索してみたのですが、

出てきたのはこんなサイトでした。
http://321bikkuri.blog.fc2.com/blog-entry-10.html

Webページをスクショしてみると…

うわぁ…


ヴォー コエー
(うぉー (こえ)え~)


「そりゃ 山下さんも1年で引退したくもなるわ (T_T)
と、勘ぐってしまうのは私だけ…?

ってか、なぜみんな こんなに性格わるいの…?
もちろん、いい人もいますけどね。
オレとかオレとか、特にオレ。

なんか神妙な(つら)して 「ここからはひとつ、ジャーナリズム的な視点から…」 とか言ってしまったけど、もうめんどくさいので やめやめ! そんな「報道」や「社説」みたいなイメージを伴った 社会的な役割としてジャーナリズムへ期待される 「公共性」がなんたら「客観性」がどーたらと(のたま)いながら 偉そうなことを書き綴るってのは、どうにも性に合わない。 だったらなぜ こんな追伸など書き始めたのだろう? なにか言いたいことがあったのだけれど、 あれこれ言及しているうちに段々と壮大になっていって、 やれ動物愛護がどうしただの、人間関係だの、内ゲバ だの、 つまりは泥試合的な応酬が うんぬん かんぬん と、 いらん事に触れたせいでクソまみれ理論になってしまった。 大昔のコメント欄まで持ち出して引用し始めた挙げ句、 他人のウェブサイトのスクショなんか貼り付けて なにが ヴォー コエー だよ、そうじゃねぇだろ! で、結局なにしたかったんだっけ?

…ああ、そうそう! ちかごろ、Amazonで書籍のレビュー欄を読むのにハマっててさぁ。 本を読まなくてもレビュワーが書籍の概要をまとめてくれてたりするから、 一定のレビューがたまった本は内容に関しては多角的に突っ込まれてて、 Wikipedia読むみたいに けっこう正確なデータが得られるってわけよ。 しかも足りないデータや詳細な資料みたいな文章を引っ張って 参考になるコメントとか意見で補足してくれてたりもするんだよね~。 「Amazonのレビュー欄はバカしかいない」ってのも一理あるけど、 学術書とか歴史の本みたいなジャンルだと 役に立つんだよなー。 (けれど 食料品とか日用品だとバカばっかり) 例えばオウム真理教関連なんかは、当時の元信者からのコメントとか、 サリン被害者の生々しい証言とか リアル目線な情報があるわけですよ。 私も自分の文章を読んでくれる読者の人たちには、 なるべくぶっちゃけた実情や実態を生々しく知ってほしいし、 現実的で有意義なデータを得てもらいたいと考えてるわけなのさ。

というわけで、またしても引用が始まるんだよね。 これは 神さまってなに? (14歳の世渡り術)[森 達也] という書籍のページにあった(するど)いレビュー。

 (前略)

善と悪について

「優しく善良であることの危険性(マジメな善人が暴走してしまう)」こと、「容易に転換する被虐と加虐」という事実についても、きちんと言及している点にも好感をもてました。

社会問題や人権にセンシティブな善い人が陥りやすい思考として「すべて悪い他者(社会とか)が悪意を持って○○した結果だ! だから糾弾せよ」という感じのものがあるように思います。 もちろん特定の人が誰かを傷つけることはあるし、その場合の責任追求や糾弾が必要なのは言うまでもないけれど、善的なものは攻撃性のインフレーションの燃料となりやすいし「わかっている私達」っていう選民意識の温床にもなりやすい

この世界は二元論や陰謀論で説明できるほど単純じゃないし、悪者探しや悪者攻撃は熱狂できるけど、けっきょくルサンチマンを噴出したり攻撃欲求を満たすために弱者や正義がネタに使われててキモい部分があるように思います。

神さまってなに? (14歳の世渡り術)[森 達也] Amazonレビュー欄の投稿[白_white]
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3AK5RVN23J2F6/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl

そう、これを読んだ時に 僕は ドキッ としたわけだよ。 特にこの 弱者や正義がネタに使われててキモい部分 って箇所にさ。 上に貼り付けたスクショの キモい部分 とか読んだ時なんかも、普通は キモー!って思うわけでしょ (私もそう感じます)。 けれど、この『月末報告120 中括』だって、 そういうふうに見えるかもしれないし、 たぶん一部はそう見えますよ。

だからこの追伸を書いた。 はい、おわり。

2023.03.19 追伸
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